【選手名鑑】槙野智章の現在地|誰よりも熱く、そして誰よりも貪欲にプレーする男

目次



槙野智章のプレースタイルと選手紹介

 

槙野智章のプロフィール

選手名 槙野智章|Tomoaki MAKINO
出身 広島県広島市西区
生年月日 1987年5月11日
身長・体重 182cm・77kg
現所属チーム/背番号/利き足 浦和レッズ/#5/右足
過去所属 2006-2010 サンフレッチェ広島
2010-2012 1.FCケルン
2012 浦和レッズ



槙野智章の動画

 



年度別出場成績

2018年

 【リーグ戦】

2017年

 【リーグ戦】

2016年

 【リーグ戦】

2015年

 【リーグ戦】

2014年

 【リーグ戦】

2013年

 【リーグ戦】

代表歴

出場大会

U-18日本代表
アジアユース選手権予選 (2005年)
U-19日本代表
カタール国際ユース親善大会 (2006年)
アジアユース選手権日本代表 (2006年)
U-20日本代表
2007 FIFA U-20ワールドカップ (2007年)

日本代表

2010 FIFAワールドカップ・アジア予選 (2009年)
AFCアジアカップ2011 (予選) (2010年)
東アジアカップ2013 (2013年)
東アジアカップ2015 (2015年)
2018 FIFAワールドカップ・アジア2次予選 (2015年)
キリンカップサッカー2016 (2016年)
2018 FIFAワールドカップ (2018年)



年度別来歴

2019年

 

2018年

 6月、ロシアワールドカップメンバーに選出された。2017年後半以降、欧州遠征で全試合にレギュラーとして出場するなどW杯でもスタメンとして出場すると思われたが、第1戦のコロンビア戦では事前合宿のテストマッチ最後の試合で活躍した昌子源にレギュラーの座を奪われ、W杯本番でスタメン落ちとなってしまった。しかし、控え選手として裏でチームを支え、第3戦のポーランド戦でW杯初出場を果たした。チームはGL突破を果たしたが、ベスト16止まりとなった。8月19日、J1第23節の清水エスパルス戦で史上100人目となるJ1通算300試合出場を果たした。

2017年

 3月19日、J1第4節のガンバ大阪戦でJ1通算250試合出場を果たした。11月10日、国際親善試合ブラジル戦で得点を決めた。なお、日本代表がブラジル代表相手に得点したのは、2006年ドイツW杯で決めた玉田圭司から11年ぶりであり、DFで得点した初めての選手となった。

2016年

 29試合3ゴールでチームの年間優勝に貢献した。12月3日の鹿島アントラーズとのチャンピオンシップ第2戦の後半34分、自陣ペナルティーエリア内で鈴木優磨に対してファールを犯し、その後PKを決められた。仮にこの失点のないまま試合が終わっていたとすれば2戦合計スコア2-1で浦和の優勝となるところだったが、このPKにより2戦合計で同点となりアウェーゴールの差で優勝を逃す結果となってしまった。 12月4日、中国リーグの強豪・広州恒大から年俸は言い値という破格のオファーを受けたが、浦和の一員としてリーグやACLで悲願のタイトルを目指すため断った。

2015年

 9月8日、サウジアラビア1部の強豪アル・ナスルから約5億円の年俸での獲得オファーを受けたが、断り浦和に残留。

2012年

 1月11日、出場機会を求め、広島時代の恩師であるミハイロ・ペトロヴィッチが監督に就任した浦和レッズへの1年間の期限付き移籍が決定した。2月24日のキリンチャレンジカップ・アイスランド戦で代表初得点を挙げた。浦和加入後、ペトロヴィッチ監督の愛弟子としてチームを牽引。6得点を記録し、チームの2008年以来のACL出場に貢献。また、自らが音頭を取り、浦和サポーターが勝利の凱歌として歌う『We are Diamonds』をホーム開催試合に限り、メンバー入り選手全員もサポーターと共に歌うなど、持ち前の明るいキャラクターでチームとサポーターの距離を縮める施策を実行した。 12月4日、2013年シーズンより浦和への完全移籍加入が発表された。また背番号を「5」に変更し、この年はリーグ戦34試合全試合に出場した。

2011年

 1月29日、FCザンクトパウリ戦でブンデスリーガデビュー。チームは敗れたがフル出場した。しかし、その後は出場機会に恵まれず、移籍1年目の出場は5試合にとどまった。翌2011-12シーズンも3試合の出場のみとなり、レギオナルリーガのケルンIIの試合にも出場していた。

2010年

 1月、既に予選突破を決め、若手が起用されたアジアカップ最終予選のイエメン戦で代表初出場を果たし、ゲームキャプテンも務めた。5月に発表されたFIFAワールドカップ・南アフリカ大会本大会の日本代表メンバーからは落選したが、予備登録選手に選出された。この年はリーグ全34試合に出場、うち33試合ではフル出場し、初のJリーグベストイレブンに選出。また、全試合に出場しながら警告・退場が1枚もなく、フェアプレー個人賞を受賞した。同年末にはAFCアジアカップ2011に臨む日本代表に選出されたものの、怪我により大会直前に途中離脱した。

 2010年12月、ドイツへ渡り、ボルシア・ドルトムントとホッフェンハイムの練習に参加。独誌キッカーからは「1対1の弱さがあり、右サイドバック向き。獲得は現実的ではない」と評され、契約には至らず、日本へ帰国。しかし、2010年12月30日、当時ケルンのスポーツディレクターを務めていたフォルカー・フィンケの誘いでドイツ・ブンデスリーガの1.FCケルンへ完全移籍加入することで合意したと発表された。契約期間は2013年6月30日まで。代理人は長谷部誠、香川真司らと同じトーマス・クロート。

2009年

 初めてJ1で一年間レギュラーとして出場し続け、DFではリーグ最多の8得点を挙げた。5月にはキリンカップおよび2010 FIFAワールドカップ・アジア予選に臨むサッカー日本代表合宿に初招集されたものの出場はなかった。

2008年

 2008年シーズンは駒野友一の移籍に伴って空いた背番号5をつけ、出場停止1試合を除く全試合に出場し、1年でのJ1昇格に貢献した。

2007年

 8月にダリオ・ダバツおよび盛田剛平が負傷したため先発メンバーに抜擢され、以降レギュラーとして定着した。同年末にJ2降格が決まった際も佐藤寿人と共に真っ先に広島残留を表明している。

2006年

 柏木、橋内優也、趙佑鎮と共にサンフレッチェ広島のトップチームに昇格。同年11月に開催されたAFCユース選手権2006および翌2007年7月に開催された2007 FIFA U-20ワールドカップでは福元洋平とセンターバックでコンビを組み、守備の要として、またムードメーカーとしても活躍した。カナダで開催されたU-20ワールドカップ本大会では髪を赤に染めていたが、これは当時広島でチームメイトだった戸田和幸のFIFAワールドカップ・日韓大会でのヘアースタイルを真似たものである。現地では「ジャパニーズ・ベッカム」と評され注目を集めた。

プロ前

 サッカーファンであった父と、既にサッカーを始めていた2人の兄の影響で小学1年生からサッカーを始めた。地元草津の草津小学校のサッカー少年団は4年生からしか入団できなかったため、隣町井口の井口明神小学校のサッカークラブに入団し、小学6年次にはFWとしてフジパンカップ広島県大会で3位入賞した。

 2000年にサンフレッチェ広島ジュニアユースに入団。同期には森重真人、左山晋平などがいる。当初はFWのポジションでプレーし、森重や平繁龍一と2トップを組んでいたが、トップ下、サイド、ボランチなど様々なポジションを経て、中学3年次にコーチの月岡利明によりセンターバックにコンバートされた。

 2003年にユースチームに昇格。ユース時代からの同期には柏木陽介、木原正和、福本尚純がいる。2年次からセンターバックとしてレギュラーを獲得し、ユースレベルでの3大大会の全てで決勝に進出し2冠達成に貢献した。一学年上の藤井大輔と組んだセンターバックは森山佳郎監督から「同世代には絶対に破れない」と賞賛された。3年次には広島ユースおよびおかやま国体における広島県選抜の主将を務めた。各年代別代表にも招集されここでも主将を務め中心選手として活躍した。



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