【選手名鑑】青山敏弘の現在地|「森保イズム」を知る広島一筋の男

目次



青山敏弘のプレースタイルと選手紹介

 主にボランチとしてプレーする。運動量豊富で危機察知能力に優れ、献身的な守備でピンチの芽を摘む。攻守の切り替えも早く、思い切りのいい判断から繰り出される正確なロングフィードですぐさま攻撃を組み立てることもできる。

青山敏弘のプロフィール

選手名 青山敏弘|Toshihiro AOYAMA
出身 岡山県倉敷市
生年月日 1986年2月22日
身長・体重 174cm・75kg
現所属チーム/背番号/利き足 サンフレッチェ広島/#6/右足
過去所属



青山敏弘の動画

 



年度別出場成績

2018年

 【リーグ戦】

2017年

 【リーグ戦】

2016年

 【リーグ戦】

2015年

 【リーグ戦】

2014年

 【リーグ戦】

2013年

 【リーグ戦】

代表歴

出場大会

U-18日本代表
仙台カップ国際ユースサッカー大会(2004年)※注:ケガのため辞退
U-21日本代表
ドーハアジア大会(2006年)
U-22日本代表
北京オリンピックサッカーアジア予選(2007年)

日本代表

東アジアカップ2013(2013年)
2014 FIFAワールドカップ(2014年)
キリンチャレンジカップ(2015年)
キリンチャレンジカップ(2018年)



年度別来歴

2019年

 

2018年

 

2017年

 8月26日、第24節の大宮アルディージャ戦で、史上96人目となるJ1通算300試合出場を達成する。

2015年

 年間1位で挑んだチャンピオンシップではガンバ大阪と対戦し、持ち前のパスセンスでゲームメーカーとして存在感を見せてMVPに選ばれた。

2014年

 佐藤寿人に変わってキャプテンに就任。

2012年

 広島のJ1初優勝に貢献し、自身初のJリーグベストイレブンに選出された。2013年7月、東アジアカップのメンバーとして日本代表に初選出された。7月21日の中国戦で代表初出場を果たした。

2009年

 引き続き主力として活躍しリーグ4位に貢献したが、11月に左膝内側半月板の縫合手術を行い、2010年序盤を欠場した。

2008年

 森崎和幸との2ボランチが安定、広島のJ1昇格に貢献したが、北京オリンピック本大会には出場が叶わなかった。

2006年

 6月、ミハイロ・ペトロヴィッチが監督に就任したことが転機となる。ペトロヴィッチは、青山を1ボランチに起用、自身初戦となるJ1第13節対名古屋戦において先発メンバーに抜擢、以降信用し起用し続けた。8月にはリーグ戦初ゴールを決めた。

2005年

 2年目の2005年5月22日、サテライトリーグ対ヴィッセル神戸戦にて左膝前十字靭帯を断裂、シーズンを棒に振った。

2004年

 サンフレッチェ広島に入団。同期に吉弘充志や田村祐基。4月、ナビスコカップ第2節横浜F・マリノス戦において若手中心のメンバー編成となり、右ウイングバックとして公式戦デビュー、同試合でミドルシュートでプロ初ゴールを決めた。それ以降はなかなか出場機会が与えられずベンチ入りすらできなかった。

プロ前

 岡山県倉敷市の連島地区育ち。フィギュアスケートの高橋大輔(関西大学大学院)は、倉敷市連島保育園、連島西浦小・連島中学校と同級生の幼馴染で、「青ちゃん」「大ちゃん」と呼び合う仲である。小学1年生の時、地元クラブチーム川鉄SSでサッカーを始める。強豪クラブチーム・ハジャスFCの1期生であり、同期に吉村修平、一つ下に田中秀哉がいる。

 2001年、岡山県作陽高等学校に入学。同級生に池松秀明がいる。サッカー部では野村雅之から指導を受けた。2年生の2002年からボランチでレギュラー、2003年にはチームの中心選手となり活躍。同年7月に特別指定選手としてサンフレッチェ広島に登録された。



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