酒井宏樹のプレースタイルと選手紹介
酒井宏樹のプロフィール
選手名 | 酒井宏樹|Hiroki SAKAI |
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出身 | 千葉県柏市 |
生年月日 | 1990年4月12日 |
身長・体重 | 185cm・75kg |
現所属チーム/背番号/利き足 | オリンピック・マルセイユ/#2/右足 |
過去所属 | 2006年 – 2008 柏レイソルU-18 2009-2012 柏レイソル(J1) 2012-2016 ハノーファー96(ドイツ1部) 2016- マルセイユ(フランス1部) |
「好きじゃなかった」レイソルとの出会い
男三人兄弟の末っ子として成長した宏樹少年は、小学3年の頃に柏マイティーFCへ入団する。人見知りだった彼も、試合になれば気持ちを全面に押し出し、点取り屋として活躍。その活躍や彼の身体能力の高さは当時から日本人離れしていた。同時にクラブも好成績を残し、柏の2強といわれるレイソルジュニアとイーグルスに迫っていた。
そして訪れた小学6年の2学期。当時レイソルジュニアユースを指導していた村井一俊監督に「練習に来ないか」と声をかけられる。宏樹少年は周りに背中を押され、渋々参加を決意。その時、尻込みしていた理由は至って簡単。レイソルジュニアは強すぎた。指宿洋史(ジェフ千葉)や工藤壮人(サンフレッチェ広島)、比嘉康平、仙石廉(栃木SC)らが所属していたからだ。
はじめは強すぎて好きではなかった柏の下部組織だったが、そこでのサバイバル経験を経て酒井宏樹は徐々に成長していく…後に柏の「黄金世代」と呼ばれる一員として。
「右」サイドバックのきっかけとなるブラジル留学
「黄金世代」の一員として活躍した酒井宏樹は、2009年トップチームへの昇格を果たす。そして同年6月サンパウロ州選手権1部・モジミリンECへ留学。元々2トップの一角で点取り屋として活躍し、柏の下部組織でサイドハーフ、左サイドバックを経験していた酒井だったが、ブラジルの地で「右」サイドバックにコンバートされた。
海外ならではの練習からチームメイトと競い合う本気度の高さの中、揉まれ続けた酒井の武器に磨きがかかる。現在彼の代名詞ともなっている「高速クロス」だった。ジュニアユースの頃から蹴っていたという高速クロスに両足を大きく開き、右足で擦り上げる動作が加わり、意図的ではなく自然と身についた彼だけの「型」になっていた。
この武器とともに大きくなった酒井宏樹は、半年の留学を経て2009年11月に柏へ復帰。2011年右サイドでレアンドロ・ドミンゲスと強力なコンビを形成していく。
世界に認められた柏生え抜きの男
プロ1年目でのブラジル留学、レアンドロ・ドミンゲスら先輩選手によってさらに引き出された酒井の能力は、2011年の活躍で世界に認められることになる。FIFA公式サイト上で「2012年注目の若手選手13人」と取り上げられると世界各国からオファーが殺到し、2012年7月にドイツ、ハノーファーへ移籍。主力として活躍し4シーズンプレー。
そして、2016年6月に現在のフランス、マルセイユへ移籍。フランス王者パリ・サンジェルマンのネイマールやムバッペらとの対決にも臆することなく立ち向かい、酒井に封じ込められたフランス代表ムバッペは「2点」と出場選手の中で最低点の評価を付けられたこともあった。
今や「日本の戦士」「守備はパーフェクト」と海外メディアから評価され守備職人として活躍する酒井。攻撃面で課題があるようだが、柏生え抜きの男は日本を代表するサイドバックとして世界で輝いている。
酒井宏樹の動画
年度別出場成績
【リーグ戦】8試合2アシスト
【ヨーロッパリーグ】1アシスト
(2018年10月16日時点)
【リーグ戦】33試合3アシスト
【ヨーロッパリーグ】10試合1ゴール1アシスト
【ヨーロッパリーグ予選】4試合
【クープ・ドゥ・フランス】2試合
【クープ・ドゥ・ラ・リーグ】1試合
【リーグ戦】35試合2アシスト
【クープ・ドゥ・フランス】3試合
【クープ・ドゥ・ラ・リーグ】2試合
【リーグ戦】26試合1ゴール1アシスト
【DFBポカール】2試合1アシスト
【リーグ戦】27試合
【DFBポカール】2試合
【リーグ戦】26試合1ゴール
【DFBポカール】2試合
【リーグ戦】13試合
【ヨーロッパリーグ】3試合
【DFBポカール】1試合
【レギオナルリーガ(北部)】1試合
【リーグ戦】15試合1ゴール3アシスト
【ACL】7試合2ゴール
【クラブワールドカップ】4試合1ゴール
【FUJI XEROX SUPER CUP】1試合
【リーグ戦】27試合9アシスト
【リーグカップ】2試合
【天皇杯】2試合
【リーグ戦】9試合1ゴール1アシスト
【天皇杯】2試合
代表歴
【出場大会】
U-16日本代表
2006年 – モンテギュー国際大会
U-22日本代表
2011年 – ロンドン五輪・アジア2次予選、最終予選
U-23日本代表
2012年 – ロンドン五輪
【日本代表】
2012年 – 2014 FIFAワールドカップ・アジア4次予選
2013年 – FIFAコンフェデレーションズカップ2013
2014年 – 2014 FIFAワールドカップ
2015年 – 2018 FIFAワールドカップ・アジア2次予選
2016年 – キリンカップサッカー2016
2016年 – 2018 FIFAワールドカップ・アジア3次予選
2018年 – 2018 FIFAワールドカップ
年度別来歴
4月12日、UEFAヨーロッパリーグ準々決勝2ndレグRBライプツィヒ戦で終了間際にマルセイユ移籍後初得点となる貴重な追加点を挙げ、チームの14年振りのELベスト4進出に貢献した。しかし同年4月23日の第34節LOSCリール・メトロポール戦で内側側副靭帯を損傷し、3週間の離脱を余儀なくされた。
ロシアワールドカップメンバーに選出され、第1戦目のコロンビア戦でW杯初出場を果たした。本大会は4戦全てにフル出場し、チームのベスト16に貢献した。その活躍ぶりを仏レキップ紙は「日常的にリーグ・アンで活躍し、W杯で記録を残している外国人選手」7人の内に酒井を選出しており、セネガル戦のユスフ・サバリとのマッチアップは素晴らしい攻防だったと評価している。
2月12日、第25節のFCナント戦で初アシストを記録。移籍1年目となった2016-17シーズンは、GKヨアン・プレを除くフィールドプレーヤーで出場時間最多となる35試合(計3012分)に出場し、レギュラーとして活躍した。右サイドでコンビを組むフロリアン・トヴァンからは「酒井のおかげで良いシーズンが過ごせたと言うのは、恥ずかしい事ではない」と好評し、リュディ・ガルシア監督からも今季の出来を称賛された。
2017年8月7日、ディジョンFCO戦にて2年連続で開幕節からスタメンで出場し、9月29日にマルセイユと2021年まで契約延長したことを発表した。
2015-16シーズン、26試合に出場し、第31節のインゴルシュタット戦では得点を挙げたが、チームは降格となった。 契約満了によりこのシーズンでハノーファーを退団した。
6月24日、フランス・リーグ・アンのオリンピック・マルセイユへの完全移籍が発表。この時スコットランドのセルティックFCやオランダのアヤックス・アムステルダムなどからもオファーが来ていたが、日本代表ヴァヒド・ハリルホジッチ監督からアドバイスを貰ったこともあり、マルセイユを選んだという。8月14日に行われたトゥールーズFCとの開幕戦でデビュー戦をフル出場で飾った。
2014-15シーズン、一時期控えに回ることもあったが、シーズン終盤はスタメンに復帰し存在感を見せた。
スティーブ・チェルンドロの負傷離脱もあり、開幕から右サイドバックの定位置を確保。第11節ヴェルダー・ブレーメン戦でゴール正面約30メートルの距離から強烈な無回転シュートをネットに沈め、ブンデスリーガ初得点を記録した。冬のリーガ中断期間に期限付き移籍で加入したチェコ代表のフランティシェク・ライトラルにもポジションを譲らず、右膝蓋腱炎を抱えながら出場を続けていたが、チームの1部残留確定後は休養した。
2012-13シーズン、UEFAヨーロッパリーグ予選プレーオフ第2戦シロンスク・ヴロツワフ戦で移籍後公式戦初出場。ブンデスリーガ第4節ホッフェンハイム戦でブンデスリーガ初出場を果たした。ロンドン五輪参加のためシーズン前のキャンプに参加できなかったことに加え、ブンデスリーガのプレースピードの速さや、柏時代とは大きく異なるチーム戦術への適応に苦しみ、試合に出られない時期が続いたが、シーズン終盤には出場機会を増やし、右サイドハーフとして先発した第33節レバークーゼン戦でブンデスリーガ初アシストを記録した。
前年の活躍により、FIFA公式サイト上でチアゴ・アルカンタラ、ユリアン・ドラクスラーらと共に「2012年注目の若手選手13人」として取り上げられ、ボルシア・ドルトムントなど7、8の海外クラブから獲得オファーが舞い込む争奪戦となったが、最も獲得に熱心だったドイツ・ブンデスリーガのハノーファー96への移籍を決断。柏でのラストゲームとなったJ1第16節ガンバ大阪戦を6-2の圧勝で締め括り、ドイツへ渡った。
7月1日、移籍金約100万ユーロ(1億円)でハノーファー96へ移籍。契約期間は3年間、プラス1年のオプション付き。入団直後にクラブを離れて参加したロンドン五輪では、初戦スペイン戦で左足首を捻挫。1次リーグ2試合を欠場した後、決勝トーナメントからスターティングメンバーに復帰し、ベスト4まで勝ち進んだが、惜しくもメダル獲得を逃した。
右サイドバックとしてプレーした練習試合で2アシストを決めたことがきっかけとなり、J1第7節大宮アルディージャ戦に先発出場。それまではセンターバックの選手と見做されていたが、右サイドでレアンドロ・ドミンゲスと強力なコンビを形成してレギュラーに定着すると、一気に大ブレイク。同年5月、U-22日本代表に初選出され、10月にはA代表にも初選出された。最終的にリーグ戦27試合に出場し、Jリーグ史上初となる昇格初年度でのJ1優勝を達成。Jリーグベストイレブン、Jリーグベストヤングプレーヤー賞を同時受賞した。2011 FIFAクラブワールドカップでも全4試合に出場し、サントスFC戦で得点を記録。同監督のムリシ・ラマーリョから称賛を受けたほか、FIFA公式サイト上で茨田陽生と共に「柏の誇るヤングスター」と紹介された。
J2第11節ヴァンフォーレ甲府戦で公式戦初出場。J2第32節水戸ホーリーホック戦で公式戦初得点を記録した。主にレギュラー不在時のバックアッパーとして、リーグ戦9試合に出場し、クラブも1年でJ1へ復帰した。
工藤、比嘉、山崎、武富、仙石と共にトップチームへ昇格。同年6月、武富と共にサンパウロ州選手権1部・モジミリンECへ留学した。モジミリンでは右サイドバック、センターバックとしてプレーし、特に守備面で大きな経験を得たが、11月の帰国後も公式戦出場は叶わず、J2降格の憂き目に遭った。
長野県中野市で出生し、幼い頃に千葉県柏市に引越し、年の離れた2人の兄の影響でサッカーを始め、小学3年生の時に地元のクラブチームへ入団。当時はフォワードを務めていた。
小学6年生の時、一度練習に参加したことがきっかけで、柏レイソルの下部組織で練習生としてプレーするようになり、2003年、中学入学と同時に柏レイソルU-15へ正式加入。
吉田達磨の指導の下、酒井、工藤壮人、比嘉厚平、山崎正登、武富孝介、仙石廉、指宿洋史、島川俊郎、畑田真輝という計9名のプロ選手を輩出した柏レイソルユース「黄金世代」の一員として、初めは右サイドハーフ、中学3年生頃から左サイドバックを担当。吉田はディフェンスラインの裏へ出て行くタイミングの良さや、スペースへ入ってくる選手にクロスを合わせる独特の感覚を持っていた酒井の才能を見抜き、あえてオフェンス面には手を加えず、課題のあったディフェンス面やポジショニングを中心に指導を行った。
2006年、柏レイソルU-18へ昇格。同年、U-16日本代表に選出され、フランス遠征を経験した。
高校3年次の2008年、比嘉と共にトップチームの2種登録選手となったが、公式戦出場はなかった。柏レイソルU-18の選手としては、第32回日本クラブユースサッカー選手権(U-18)大会で準優勝を飾ったほか、ビジャレアル国際ユーストーナメントでは、リヴァプール、アヤックス、セルティックといった強豪を破って3位に輝いた。