【選手名鑑】梅井大輝が戻ってきた相模原の地|FWの気持ちを知る大型CBの思考法

 サクセスストーリーやシンデレラストーリーは華やかだ。しかし、そのような物語はごく一握り。多くの選手達は夢破れて現実に引き戻される。チームに馴染めず移籍を繰り返したり、自身の能力最大限に引き出すことができなかったり、スポーツ選手につきものとなる『怪我』が要因となるケースも少なくない。ただし諦めなければ、『夢』が自らから離れていくことはないのだ。何年かかったとしても。プロサッカー選手である梅井大輝の人生はまさに『夢から離れない』ことの体現だ。

目次




梅井大輝のプレースタイルと選手紹介

 アバウトだがタイトなディフェンスと、パワフルなヘディング。一見すればセットプレイ守備のうまい大型FWにも見える梅井大輝は、相模原のCBとして欠かせない戦力に成長した。むしろ、梅井の高さを中心に守備戦術が組み込まれるほど、チームの中に溶け込んでいる。しかし彼は、上位カテゴリーから勝負の波に揉まれてカテゴリーを落としたわけでも、コツコツとキャリアを重ね続けたわけでもない。日本代表プレイヤーとの研鑽や地域リーグ時代の家族の絆など、あまりのジェットコースターを繰り返した選手である。体格に恵まれながらも、激動の選手人生を送りながら掴み取った『今』を在籍した各クラブのサポーターだけでなく、プロを目指す選手たちにこそ知ってほしい人生だ。




マリノス入団からザスパへのレンタル

 福井県出身の梅井は、強豪校出身でもユースやジュニアユースに在籍した経験もない。ごく普通の小学校・中学校を経て、県立高校に進学しながらJリーグの名門横浜F・マリノスに認められて高校卒業後にプロ入りした『ごく普通』のプロサッカー選手である。全国大会で常連でもなく、最後の大会は予選の初戦で敗退するレベルだったものの、日本高校選抜に招集されるほどのポテンシャルを持っていた。194cmの大柄な体躯は元FWであり、学生時代は得点を量産していたが、学生キャリアの途中からDFにトライし始める。元々ゴールゲッターがDFに転向することは珍しくない。例えば2019年シーズンにアビスパ福岡へと加入するDF三國ケネディエブス(青森山田高)は中3時の全国大会で得点王を獲得しながらも高校でDFに転向。いずれも、得点し続けることの才能に限界を感じ、恵まれた体格を活かしてDFの道を選択している。
 プロの道に進んだ梅井のライバルは、中澤佑二や松田直樹、那須大亮、栗原勇蔵、河合竜二ら日本代表や経験者、オリンピック代表など実績・実力ともに日本歴代屈指レベルのDFたちとなった。太刀打ちこそできなかったものの、DFに転向してから日の浅い梅井にとって試合以上に練習で得られるものはあまりにも濃密だった。しかし2シーズンを終えても出場機会が得られなかったことで、J2ザスパ草津(当時)へとレンタル移籍を果たす。

複雑骨折からの負傷離脱と後押しした福井の土地

 群馬でついにプロ初出場を果たした梅井にまたしても試練が襲う。序盤からコンスタントに5試合出場すると5月以降は怪我に苦しむ。結果として手術に踏み切ることになったが、この年は実家のある福井県から父親が駆けつけて怪我に苦しむ梅井を支え続けた。ようやく秋口に練習復帰を果たすも、怪我の回復は芳しいものではなかった。非情なプロの世界、レンタル元の横浜も群馬とも契約が満了し、翌年の行き場を失ってしまう。
 挨拶やロッカールームの片付けもあるザスパ草津での練習最終日、トライアウトも意識した上でのコンディション調整の最中で骨折を負ってしまう。トライアウト出場は叶わず、負傷も重なってしまい、21歳にして浪人期を経験したが、半年以上の治療とリハビリを経て2011年後半に大分トリニータへと移籍。ここでもリハビリをこなしながら試合復帰を目指すも、幾度も負傷した患部の状態は芳しくなく、地元に近いツエーゲン金沢(当時JFL)へと移籍した。2008年に名門横浜F・マリノスでプロ入りした大型DFは、数試合の出場実績のまま『J』というプロの舞台を去った。
 金沢移籍後も痛みが引かない。苦しさから「引退」の二文字が脳裏によぎる。それでも、ザスパ時代に出場した当時の数少ない成功体験が梅井をサッカー選手足らしめた。
 「ここで辞めたら一生後悔する」
2013年地元福井へ戻り、地域ちー具である甲信越リーグのサウルコス福井へ加入すると、早稲田大学人間科学部の通信課程やアルバイトを掛け持ちしたり、クラブの営業活動にも携わりながら、怪我からの復帰を目指した。元ザスパ草津の恩師佐野達が福井を離れるのと同時に、梅井自身も福井退団を決意する。




「ラストチャンス」を叶えた下積みの努力

 「ラストチャンス」と決意して梅井は人生二度目の福井からの引っ越しを行う。一度目は横浜へ単身向かった18歳若者は、8年が経過し、人生の辛酸を舐めた。二度目は前年に結婚した奥さんを連れた上で福島へと向かう。J1、J2、JFL、地域リーグと経験した男は6年ぶりにJの舞台へ返り咲いた。怪我の痛みも払拭して19試合に出場すると、ついにプロ初得点も記録した。その年の末にSC相模原オファーが届き、1年間の成功体験を引っ提げてプロのスタート地点である神奈川に足を踏み入れた。
 2017年シーズンは相模原の主戦CBとして活躍すると、31試合1ゴール。ついに10年目にしてシーズンを通して主力で過ごすことに成功した。
 11年目となった2018年の開幕戦はアウェーだが同じ神奈川のY.S.C.C.横浜だった。結果は2-2のドローだったが、この試合は梅井にとってサッカー選手として100試合目の試合になった。
 そして5月3日、8年ぶりに正田醤油スタジアム群馬のピッチにたった梅井を、ザスパクサツ群馬のサポーターは拍手で迎えた。8年前5試合しか出場歴のなかった弱冠二十歳の若者のことを覚えていてくれたこと、拍手で迎え入れてくれたことに感謝した。特にザスパで2度目にケガを負った際の怪我は、複雑骨折だった。膝から下の神経が麻痺しており、『もうサッカーは無理』と暗雲が垂れ込んでいた。「またここに戻ってこられると思わなかったので、うまく言葉が見つからない。ザスパのサポーターの皆さんに、自分がプレーしているところを見てもらえて本当に良かったと思っている。感謝の気持ちでいっぱいです」と語った試合は1-1のドローで幕を閉じた。
 2年前に所属した福島ユナイテッドFCとは第14節で対戦し、こちらも2-2のドロー。まるで両方のサポーターに祝われるかのような凱旋を続ける梅井の姿を象徴するような結果となった。




プロキャリアは100試合を超えた

 第3節延期分となった9/12のアスルクラロ沼津戦では同点弾を放ち、結果の勝利に結びつけた。前節ブラウブリッツ秋田戦で7失点の敗戦を喫し、反省し続けていた梅井にとって破顔一笑の結果となった。
 パワーヘッダー、アバウトだがパワフルな守備、時折見せる持ち上がりは梅井の特徴とも言えるプレースタイルとなった。ドリブルやパスの交換から持ち上がってインターセプトされた後の戻りの遅さは気になるところだが、何故かその時点さえ楽しそうに見える。FWからDFへコンバートし、怪我を気にしながら、元は不慣れだったCBとして律し続けてきたものの、ようやく少しずつ攻撃的姿勢が現れてサッカーそのものを楽しみ始めたのかもしれない。プロの舞台で今シーズン18試合4得点とキャリアハイの成績を残す梅井大輝の物語はまだ通過点に過ぎない。
 誰もが思い描きたくなるシンデレラストーリーからのプロ入りも、一つの行動や選択で人生は大きく変わる。ただ、マイナスにも見える選択肢であっても目標と理想を持ち続けることで、叶う世界はあることを、梅井大輝は自らのサッカー人生を以って我々に教えてくれている。



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