小野伸二の現在地|怪我に悩まされた世界も認める“天才”・札幌でのポジションとプレースタイル

 幼い頃から「天才」と呼ばれてきた小野。少年団の監督から「お金はいらないから入ってくれ」と勧誘されるほどだった。高校でも天才ぶりを発揮し、1998年に浦和レッズへ入団。しかし翌年左膝靭帯断裂という大怪我をして以降怪我に悩まされる。国外3カ国3クラブ、国内では浦和と清水でプレーし、2014年札幌の一員となる。天才と言われ続ける小野の現在地とは。

目次
・小野伸二の動画
・選手紹介
・プロフィール
・プレースタイル・能力値・アビリティ
・セールスポイント・ウィークポイント・グロースポイント
・ヒストリー
・年度別来歴
・Evolving Data Other Contents
・Evolving Data Category Contents

小野伸二の動画




選手紹介

 小野の天才ぶりは世界の選手を魅了した。
 ・ロビン・ファン・ペルシー「小野は天才。オランダ代表の練習で小野より上手い選手はいなかった。」
 ・スナイデル「これまで対戦した中でも、最もタフな相手の一人。彼が日本人だからとか、あなたを喜ばせようとしてそう言っているんじゃないんだ。」
 ・カイト「セードルフを見た時より、小野に会った時の方が衝撃を受けた。」
 ・フェイエノールトの当時の監督ベルト・ファン・マルワイク氏「今の日本代表に第2の小野伸二はいない。シンジは今まで一緒に働いた中で、一番良いプレーヤーだった。」

 ボールコントロールの正確さから、「ボールと会話できる選手」と呼ばれる。
 受け手に優しく柔らかいパスは、海外移籍前の日本では「エンジェルパス」、移籍後のオランダでは「ベルベット・パス」と称された。(ベルベットの意は“布”「布のようになめらかで優しいパス」)

プロフィール

選手名 小野伸二|Shinji ONO
出身地 静岡県沼津市
生年月日 1979年9月27日
身長・体重 175cm・76kg
現所属チーム/背番号/利き足 北海道コンサドーレ札幌(J1)/#44/右足(両利き)

プレースタイル・能力値・アビリティ

 現在作成中



セールスポイント・ウィークポイント・グロースポイント

 現在作成中

ヒストリー

 現在作成中

年度別来歴

2019年

2018年

2017年

 4月2日、第5節のヴァンフォーレ甲府戦では途中出場からJ1に1709日ぶりに出場した。

2016年

2015年

 怪我で出遅れたが、10月5日に行われた東京ヴェルディ1969戦で札幌移籍後初ゴールを挙げた。

2014年

 1月16日、J2のコンサドーレ札幌と仮契約、6月から加入予定であることが発表された。6月8日に北海道入りした際には、新千歳空港で200人のファンと40人の報道陣に迎えられ、翌9日にさっぽろテレビ塔下で加入会見を行った。
 2014年シーズンは、怪我の影響もあり7試合のみの出場でとどまった。

2013年

 ウェスタン・シドニー・ワンダラーズFCでの2年目はJリーグ王者のサンフレッチェ広島を破り、ACLベスト8進出に貢献。チームからシーズンMVP、パラマタ市から名誉市民賞を受賞した。

2012年

 9月28日、オーストラリア・Aリーグのウェスタン・シドニー・ワンダラーズFCに移籍。アレッサンドロ・デル・ピエロ、エミール・ヘスキーらと共にAリーグにおいて高い注目を集められた。1年目は26試合で8ゴールを挙げ、チームリーグ参入初年度でのレギュラーシーズン優勝に貢献した。
 1年目の活躍で、Aリーグベストイレブンと日本総領事館の在外公館長表彰を受彰。

2010年

 高校時代から獲得の意思が強かった清水エスパルスからのオファーを受けて2010年1月に移籍を決めた。背番号は当時自身の年齢であった30番を選択した。ベテランとしてチームをまとめ、インサイドハーフのポジションを確保したが、W杯のメンバーには選ばれず、連続出場記録は3で止まった。優勝は逃したが、リーグを首位で折り返し、天皇杯も決勝に勝ち進む活躍を見せた。
 J1第30節の湘南戦の得点は、ゴール破損による中断のため、前半のアディショナルタイムが10分以上あり、ゴール時間が45+13分という珍記録となる。
 2011年から主将に就任。

2008年

 1月に浦和からドイツブンデスリーガのVfLボーフムに移籍した。
 2007-08シーズンのデビュー戦となったヴェルダー・ブレーメン戦では途中出場ながら2アシストを決め勝利に貢献した。怪我の影響もあり先発機会は少なく、途中出場が多くなった。

2007年

 三都主アレサンドロがオーストリアのレッドブル・ザルツブルクに移籍したため背番号を8に変更した。
 6月30日の磐田戦における直接フリーキックとループシュートによる2得点など天才的なプレーを見せることも多かったが、ブッフバルトに引き続き守備的戦術を採用したホルガー・オジェック監督の方針のため途中出場することもあった。

2006年

 1月13日に浦和への復帰が決定し、1月26日に正式契約を結んだ。背番号は18を与えられた。
 リーグ戦では怪我の影響、守備を重視するギド・ブッフバルト監督の戦術により、レギュラーとして出場できない試合もあった。
 12月に天皇杯準々決勝のジュビロ磐田戦で途中出場し、一時は逆転となる2得点を決め、続く準決勝の鹿島アントラーズ戦では先発出場し先制得点を挙げ、ロブソン・ポンテとのワンツーから決勝点もアシストする活躍で天皇杯優勝に貢献した。

2005年

 2005年W杯最終予選バーレーン戦前の練習中に疲労骨折し、更に以前の怪我の再手術もありシーズンを棒に振った。コンフェデレーションズカップも欠場した。

2004年

 前年からの怪我の影響もあったが復帰後すぐに日本代表に招集されW杯3次予選突破に貢献。
 2004-05シーズンはルート・フリットの下でフェイエノールト在籍4年目を迎えた。日本代表やアテネでの過密日程の影響もあり、負傷が多いシーズンになった。このシーズンはフェイエノールト在籍期間中で最も多い7ゴールを挙げた。

2002年

 8月に行われた2002-03UEFAチャンピオンズリーグ予備予選で、トルコのフェネルバフチェと対戦し、ホームとアウェイそれぞれで決勝ゴールを奪い、チームを本選へ導いた。
 新たに日本代表監督に就任したジーコにも招集され初戦でもゴールを決めた。
 これらの活躍が評価され、2003年にはアジアサッカー連盟(AFC)から2002年度の年間最優秀選手賞を送られている。

2001年

 日本で開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2001において日本代表のレギュラーとして準優勝に貢献した。
 J1の1stステージ終了後にオランダリーグの強豪クラブであるフェイエノールトへの移籍が決定した。
 
 フェイエノールトでは背番号14を与えられた(小野が以前日本ユース代表で14番を付けていたことがあるのがこの番号を選んだ理由)。
 2001-02シーズンに加入するとすぐにスターティングメンバーに定着した。
 6月には日韓ワールドカップでの日本代表に選出され、虫垂炎を患いながらも全4試合に出場し、日本代表として史上初のベスト16に貢献した。

2000年

 コンディション不良が続きシドニーオリンピックの本大会メンバーには選出されなかったが、アジアカップレバノン大会の日本代表に選出された。
 クラブのJ2降格に伴い清水エスパルスを始め他チームから獲得オファーがあったが、チームへの残留を決断しクラブ史上最年少のキャプテンとしてチームを牽引し最終節でJ1昇格を果たした。

1999年

 浦和での背番号を8に変更した。
 ナイジェリアで開催されたFIFAワールドユースでは、決勝のスペイン戦は累積警告で出場停止となったものの、キャプテンとして準優勝に貢献し、ベストイレブンにも選出された。
 7月5日に行われたシドニーオリンピックのアジア地区一次予選、対フィリピン戦において、相手ディフェンスに後方からのタックルを受け、左膝靭帯断裂の重傷を負った。この怪我により長期離脱を余儀なくされ、リーグ戦の半分以上を欠場。
 リハビリを経て復帰したが、この怪我に由来する慢性的な痛みや故障の頻発を抱えるようになる。浦和も成績が低迷し、J2に降格した。

1998年

 アジアユース選手権で準優勝し、自身もMVPを獲得。
 韓国とのワールドカップ共催記念試合で岡田武史監督に抜擢され、18歳でフル代表初出場を果たした。フランスW杯の日本代表に選出され、第3戦のジャマイカ戦で15分間の途中出場した。この試合ではファーストタッチで相手選手を股抜きでかわすなど好プレーを連発した。
 浦和ではデビュー2戦目の横浜フリューゲルス戦でプロ初得点を挙げた。このシーズンは合計9得点を挙げ新人王とJリーグベストイレブンを受賞した。

プロ前

 小学生時代から「天才」と呼ばれ地元では名前を知られていた。6人兄弟の内で5番目の子で、母子家庭で育ち小学校時代は家庭が貧しく、サッカー少年団にも入っていなかったが、小野が一人でサッカーをしているのを見た少年団の監督から「お金はいらないからぜひ入ってくれ」と勧誘された。
 1993年に13歳でU-16日本代表に初選出され、以降も各年代の代表チームの中心選手として活躍した。
 1994年には第6回U-16アジアユース選手権で優勝。
 1995年にはFIFA U-17世界選手権大会に出場。
 
 清水商業高校に入学し、同級生には平川忠亮、池端陽介などがいた。1年後輩には池田学がいる。チームの中心としてプレーしていたが全国高等学校サッカー選手権大会には静岡県予選で敗退し本大会出場を一度も果たせなかった。
 高校3年時1997年の全日本ユース選手権では準優勝、インターハイベスト8、他校の選手と合同チームを組んだ国民体育大会では静岡県選抜・少年男子の部で2年連続となる優勝をはたした。卒業に際してはJリーグの13クラブからオファーを受け、浦和レッズに加入し、背番号は28を与えられた。






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