今季のゴール前に飛び込む姿を見れば、蜂須賀孝治が昨季までリーグ戦通算得点0とは思えない。第6節浦和戦途中交代で今シーズン初出場、翌7節名古屋戦でフル出場し、シーズン初アシストを記録。10節セレッソ大阪戦でリーグ戦初得点を決めた。右CKのこぼれ球を拾ったMF野津田岳人が左足で、ペナルティーエリア中央やや左にボールを送ると、ジャンピングボレーで右足を振り抜いた。しかし先制点で広がった歓喜の輪を試合終了まで保つことができず、MF清武弘嗣の2得点で逆転されて試合を終えた。試合後に苦い表情を浮かべた蜂須賀だが、これまで幾度となく悔しい思いをし続けた。常に挑戦し続けてきた「真面目な男」の人生と現在地を見ていきたい。
- 【選手紹介】蜂須賀孝治のプレースタイルと選手紹介
- 【ヒストリー】「夢のまた夢」と表現したプロ入りへの決意を上向かせた2010年の夏
- 【ヒストリー】2011年3月11日
- 【ヒストリー】訪れた試練と納得できぬシーズン
- 【ヒストリー】ベガルタ所属選手のスキルを融合
- 【ディスコグラフィー】紹介動画
- 【ディスコグラフィー】プロフィール
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蜂須賀孝治のプレースタイルと選手紹介
小学2年生でサッカーを始めると、3歳年上の兄の姿を追った。しかしその兄が、ケガのために高校3年でサッカーを断念した際、プロサッカー選手になることを決意する。父の薦めもあって桐生第一高へ進学し、高校3年時には主将を務めて選手権群馬予選決勝進出を果たすも、MF青木拓矢(現・浦和レッズ)らを擁した前橋育英に敗れた。志望は慶應義塾大学だったが不合格となり仙台大学へ進学。SB、CB、ボランチ、FWなどの様々なポジションを経験した。2012年仙台の特別指定選手となり、翌年仙台に入団する。
プレースタイルは左右のサイドを遜色なく務められる点であり、オーバーラップからのクロスや対人の守備定評がある。2017年からは先代がWBのシステムを活用し始めたことから、サイドの選手がアンダーラップやインサイドワークに参加することもあり、中へと入り込む動きも得意とするようになった。
「夢のまた夢」と表現したプロ入りへの決意を上向かせた2010年の夏
小学2年生でサッカーを始めると、小学3~5年時は地元のクラブチームでプレーしたが、小学6年時は水戸ホーリーホックが栃木に展開するホーリーホック栃木のジュニアチームでプレーした(現・FC栃木)。中学ではヴェルディSS小山へ入団。後のチームメイトとなるMF富田晋伍と蜂須賀の3歳年上の兄が同クラブのユースでチームメイトだったのも一つの理由だった。しかしその兄が、ケガのために高校3年でサッカーを断念することを決意する。まだ中学3年生の蜂須賀は、その時点で『プロサッカー選手になる』という熾烈で険しい道を目標に据えた。
父の薦めもあって桐生第一高へ進学すると高校2年時にインターハイへ出場。一学年植野DF乾大知(現・サガン鳥栖)やDF黄大城(現・LB-BRB TOKYO)らを中心としたメンバーで挑んだ。高校3年時には主将を務めて選手権群馬予選決勝進出を果たすも、MF青木拓矢(現・浦和レッズ)らを擁した前橋育英に敗れた。志望はプロではなく、慶應義塾大学。しかし結果は不合格となり、仙台大学へ進学した。
大学ではルーキーイヤーから出番もあったが、下級生段階最大のハイライトは、2年時の2010年7月に訪れた慶應義塾大学との総理大臣杯全日本大学サッカートーナメント準々決勝だ。自身がかつて志望した大学との試合だった。敵陣には高校の先輩である黄大城の姿もあった。前半に先制点を決められた後、蜂須賀は同点弾をアシスト。仙台大は1点を追加し、3点目には蜂須賀のこの日2つ目となるアシストもあって3-2で勝利を収めた。プロを決意して5年経過したものの、高校ではスカウトの目に止まらなかった。「夢のまた夢」と表現したこともある蜂須賀孝治の運命の分岐は一度ここで上向いた。はずだった。
2011年3月11日
東日本を襲った大震災の被害を受けたのは言うまでもない。大学3年生だった蜂須賀孝治にとっても、忘れられない一日であり、機関となった。サッカーをするどころか、日常生活自体、インフラがストップした。
ようやくの復興が始まる頃、大学の北海道・東北選抜メンバーに選出された。選抜は、中学2年時に関東トレセンで選ばれた以来のことだった。翌4年時も同選抜に選出され、デンソーカップチャレンジサッカーではベストイレブンにも選ばれた。徐々に掴みつつあった夢の舞台には既に手をかけていた。6月に承認されていたベガルタ仙台の特別指定選手として、2012年の最終節でついにプロのピッチに降り立った。この試合で内定を確実なものとし、2013シーズンからのプロ入りが決まった。
訪れた試練と納得できぬシーズン
ルーキーイヤーは開幕からコンスタントな出場を続け、4月末のACLブリーラム戦でA契約も獲得。順風満帆なシーズンを過ごすも、年末の練習中に右膝前十字靭帯を断裂し、全治7ヶ月の重症を負った。手術、治療、リハビリの期間は長く、2014シーズンの第33節で復帰するも、チームに貢献することができなかったと悔やむ。
翌2015年、チームは大卒3年目の蜂須賀孝治に選手会長の任を託した。まだ若くも好況と苦境を経験した真面目な男は2年に渡る任を全うし、チームに規律をもたらした。2017シーズン3月11日には選手各自が『特別な日』と語る震災発生当日に試合が行われた。当時はまだ大学生だった蜂須賀にとっても忘れられない日だった。プロ入り5シーズン目だが、未だ納得できぬシーズンを過ごせずにいた蜂須賀だが、このシーズンに変わったフォーメーションとチームメイトたちの強みを徐々に吸収していく。
ベガルタ所属選手のスキルを融合
選手評価が変わりゆくさまと、選手プレースタイルがステップアップする様子を同時に共有できる存在は稀有だ。ただ、少し遅れて開幕した蜂須賀孝治のプレースタイルは昨年までとは異なっていた。ゴール前に飛び出していく様はシーズン7得点を決めた時期のDF菅井直樹に通ずるものがあり、右から上げるクロスはMF古林将太、左から上げるクロスはDF永戸勝也、ぬるぬるとしたドリブルはMF中野嘉大、一瞬で突破する姿はMF関口訓充と、チームメイトたちの良い部分を吸収してアウトプットしている。
13年前、兄の意志をついで叶えたプロへの想い、慶応大への進学できずとも仙台大で果たした勝利、震災を乗り越えて叶えたプロ入り、ルーキーイヤーの大怪我から選手会長への就任…。様々な人の様々な思いや考え、プレーを見て真摯に捉えられる時間と立場が成した吸収力かもしれない。
実は蜂須賀にとってのプロ初ゴールは2015年のヤマザキナビスコカップ川崎戦で一度訪れている。しかし、FW大久保嘉人(現・ジュビロ磐田)のゴールによって同点で試合を終えた。セレッソ戦も敗戦。その後も、ロシアW杯明け初戦の横浜FM戦での大敗時の追撃弾、18節C大阪戦で得点もラストプレーで同点弾を浴びた。得点が勝利に直結しないまま迎えた8月15日の湘南戦でチーム4点目を決めるも、『疑惑のゴール』扱いを受けており、ピリッとしない。2018年は残り8試合。ついにJリーガートップのクロス精度にまで到達した蜂須賀孝治は勝利をもたらす得点を決めることができるだろうか。
蜂須賀孝治の動画
プロフィール
選手名 | 蜂須賀孝治|Koji HACHISUKA |
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出身地 | 栃木県大平町 |
生年月日 | 1990年7月20日 |
身長・体重 | 180cm・76kg |
現所属チーム/背番号/利き足 | ベガルタ仙台(J1)/#4/右足 |
年度別来歴
2014年11月29日、第33節徳島戦で約1年ぶりに公式戦復帰を果たした。
2013年4月24日のACL・ブリーラム・ユナイテッドFC戦で公式戦450分出場を果たし、プロA契約へ移行。同年12月13日の練習中に右膝前十字靭帯を断裂、全治約7か月の重傷を負った。
2012年6月、ベガルタ仙台に特別指定選手として登録。12月1日、J1最終節のFC東京戦でJリーグデビューを果たす。同月6日、翌シーズンの仙台への加入内定が発表された。
小学2年から大平南少年サッカー部でサッカーを始める。3歳年上の兄がケガのために高校でサッカーを断念した際、プロサッカー選手になることを決意した。
桐生一高出身の父の勧めにより同校に進学。3年時には主将を務め、高校選手権県予選で同校初の決勝進出を果たしたが、決勝では前橋育英高に敗れた。
慶應義塾大学の受験に失敗し、仙台大学へ進学。大学時代はSB、CB、ボランチ、FWなどの様々なポジションを経験。2011年、2012年の2年連続で北海道・東北学生選抜のメンバーとしてデンソーカップサッカーに出場、2012年はベストイレブンに選出される。
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