「大迫、半端ないって!」
2009年に行われた第87回全国高等学校サッカー選手権大会の準々決勝滝川第二高校の主将が放った言葉。この大会で「大迫勇也」という男は一大会で10ゴール10アシストという半端ない記録と共に、鹿島アントラーズへ。鹿島でも半端なかった大迫は5シーズンプレーし、ドイツへ。日本国内では収まりきらなかった「半端ない男」の誕生、そして大迫勇也の現在地とは。
大迫勇也のプレースタイルと選手紹介
大迫は抜群の特長があるわけではないが、すべての能力が高い。ゴールを決める技術はもちろん、ポストプレーや前線からの献身的な守備にも定評がある。
理想のサッカー選手はティエリ・アンリと高原直泰。
大迫勇也のプロフィール
選手名 | 大迫勇也|Yuya OSAKO |
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出身 | 鹿児島県加世田市(現南さつま市) |
生年月日 | 1990年5月18日 |
身長・体重 | 182cm・71kg |
現所属チーム/背番号/利き足 | ブレーメン/#8/右足 |
過去所属 | 2006-2008 鹿児島城西高等学校 2009-2013 鹿島アントラーズ 2014-2015 1860ミュンヘン(ドイツ2部) 2015-2018 ケルン(ドイツ1部) 2018-2019 ブレーメン(ドイツ1部) |
挫折から「怪物ストライカー」の誕生
中学校卒業後の春休み、入学前の大迫は鹿児島城西高の遠征に帯同した。相手は大学生。残り15分から出場した大迫は1得点・1アシストという圧巻の活躍をしてみせた。そして2006年に鹿児島城西高へ入学。もちろん1年時からストライカーとしてレギュラーを掴み、U-16日本代表に選ばれるなど、知る人ぞ知る存在となっていた。
2017年8月に行われるU-17(城福浩監督)W杯の選考にまさかの落選。6月まで代表のスタメンの座を掴み、順風満帆のキャリアを積んでいた大迫には大きな挫折だった。さらに高校2年生となりチームの中心としてプレーしていたため大きな責任・重圧がのしかかった。ひとりよがりなプレーが増え、得点も今までのように取れなくなる。気持ちとは裏腹にうまくいかない大迫に対し、小久保悟監督が声を掛ける。
「このままではダメになるぞ。もう少し周りを使ってプレーしなさい」
自他共に認めるほどの負けず嫌い、それと共に周りの意見を聞く耳を持っていた大迫は、仲間意識・決定力に対する強い意識を持つようになり、徹底的にシュート精度を高める練習を積む。
挫折を乗り越えた大迫勇也は、さらなる「怪物ストライカー」として成長していた。
「あの」名言
高校3年生を迎えた大迫は、超高校級のストライカーとして、全国にその名を轟かせた。インターハイ鹿児島予選の決勝では、名門の鹿児島実業高校を相手にひとりで5ゴールを決め優勝に貢献すると、九州プリンスリーグでもゴールを量産。全国高等学校サッカー選手権大会の県予選では5試合で11ゴールを決める活躍で、母校を8年ぶりとなる全国大会へと導いた。
そして全国大会。初戦から4試合連続2ゴール、準決勝、決勝でも1ゴールずつ決め、計10ゴール。一大会に10ゴールという記録は1999年富山第一高の石黒智久、2003年国見高の平山相太の9ゴールを抜き新記録となった。
この活躍は相手監督、選手も脱帽だった。準々決勝を戦い、大迫勇也に2ゴールを決められた滝川第二高。当時の栫監督は「あれはすごいな。俺、握手してもらったぞ」と称賛すれば、主将を務めていた中西隆裕選手が叫ぶ。
・・・・「大迫、半端ないって!」
Jリーグ初ゴールの相手監督は城福浩
半端ない男へと成長した大迫は、Jリーグの6クラブからオファーを受け鹿島アントラーズへ入団することを決意。中田浩二、小笠原満男、本山雅志ら多数の選手をスカウトしてきた椎本邦一スカウト部長は「柳沢敦以来の衝撃」と評した。
2009年のFUJI XEROX SUPER CUPのガンバ大阪戦にて途中出場を果たすと、AFCチャンピオンズリーグ上海申花戦で公式戦初先発でプロ初ゴールを記録。
そして生まれたJリーグ初ゴールは4月12日の第5節FC東京戦。相手はあの挫折を味わった時の監督、城福浩だった。このシーズン高卒加入者では1996年の柳沢と並ぶ高卒加入選手のシーズン最多得点(6得点)を記録。
鹿島で5シーズンプレーした大迫は、8タイトルの獲得に貢献した。
ドイツでも半端なさは健在
鹿島アントラーズで5シーズンプレーした後、TSV1860ミュンヘン、ケルンでプレー。2015-16シーズン出場機会を失い、トップのポジションではなく、トップ下やサイドハーフのポジションで起用される事も増え大迫自身ホームシックになってしまう。しかし、翌シーズンにはファン投票による9月のクラブ月間最優秀選手に選ばれるなどの活躍を収め、得点こそ少ないもののそれ以外の献身的な守備やポストプレー、突如として生まれるスーパーゴールで多くの観客を魅了した。
2018年ブレーメンへ移籍。半端ない男の活躍は続く。
大迫勇也は、生まれ持ったスキルもあるが努力の天才でもある。
鹿児島育英館中学校に入学した時から、高校を卒業するまでの6年間、ほとんど毎日欠かさずに居残りシュート練習を行っていた。その習慣はプロになってからも変わらず、所属していたケルンでもコーチの許可を得た時は、居残りでシュート練習に励んでいたという。
大迫勇也の動画
年度別出場成績
【ブンデスリーガ】6試合1ゴール
【DFBポカール】1試合1ゴール
(2018年10月11日現在)
【ブンデスリーガ】25試合4ゴール2アシスト
【ヨーロッパリーグ】6試合2ゴール1アシスト
【DFBポカール】1試合
【ブンデスリーガ】30試合7ゴール8アシスト
【DFBポカール】2試合2ゴール
【ブンデスリーガ】25試合1ゴール1アシスト
【DFBポカール】2試合1アシスト
【ブンデスリーガ】28試合3ゴール4アシスト
【DFBポカール】1試合1アシスト
【ブンデスリーガ2部】15試合6ゴール3アシスト
【リーグ戦】33試合19ゴール6アシスト
【天皇杯】1試合1アシスト
【リーグカップ】7試合2ゴール3アシスト
【スルガ銀行チャンピオンシップ】1試合3ゴール
【リーグ戦】32試合9ゴール10アシスト
【天皇杯】3試合1ゴール
【リーグカップ】9試合7ゴール2アシスト
【スルガ銀行チャンピオンシップ】1試合
【リーグ戦】25試合5ゴール4アシスト
【ACL】4試合1ゴール
【天皇杯】3試合1ゴール
【FUJI XEROX SUPER CUP】1試合
【リーグカップ】3試合3ゴール1アシスト
【リーグ戦】27試合4ゴール1アシスト
【ACL】5試合1ゴール
【天皇杯】4試合2ゴール
【リーグ戦】22試合3ゴール3アシスト
【ACL】5試合3ゴール1アシスト
【天皇杯】2試合
【FUJI XEROX SUPER CUP】1試合
【リーグカップ】1試合
代表歴
フル代表初出場 – 2013年7月21日 東アジアカップ 対中国(ソウルワールドカップ競技場)
フル代表初得点 – 2013年7月25日 東アジアカップ 対オーストラリア(華城総合運動場)
【出場大会】
U-16日本代表(2006年)
U-17日本代表候補(2007年)
U-19日本代表候補(2009年)
U-20日本代表(2009年)
U-22日本代表
2011年 ロンドンオリンピック アジア2次予選
2011年 ロンドンオリンピック アジア最終予選
U-23日本代表
2012年 トゥーロン国際大会
2012年 ロンドン五輪サッカー日本代表 予備登録メンバー
【日本代表】
2010年 – アジアカップ予選
2013年 – 東アジアカップ2013
2014年 – 2014 FIFAワールドカップ
2015年 – キリンチャレンジカップ
2016年 – キリンチャレンジカップ
2016年 – 2018 FIFAワールドカップ・アジア3次予選
2017年 – キリンチャレンジカップ
2018年 – 2018 FIFAワールドカップ
年度別来歴
昨季所属したケルンの2部降格に伴いヴェルダー・ブレーメンへ加入することが発表された。契約年数や移籍金は非公開としているが約6億円から8億円の移籍金とみられる。8月18日、DFBポカール1回戦でブンデス4部クラブのヴォルマティア・ヴォルムス戦において移籍後初ゴールを決めた。9月1日のブンデスリーガ第2節アイントラハト・フランクフルト戦でゴールを決め、移籍後リーグ初得点を決めた。
1月28日のダルムシュタット戦ではブンデスリーガで自身初となるドッペルパック(1試合2得点)を達成した。3月18日、第25節のヘルタ・ベルリン戦では1得点1アシストの活躍を見せた。5月20日、最終節の1.FSVマインツ05戦では試合終了間際に貴重な得点を決め、UEFAヨーロッパリーグの出場権獲得に貢献した。このシーズンはアントニー・モデストとの2トップが型にはまり、自身もリーグ戦7ゴール6アシストを挙げるなど、ケルンと共に飛躍の年となった。
2017-18シーズン。2017年9月14日、欧州EL第1節のアーセナルFC戦で途中出場からELデビューを果たした。11月2日、欧州EL第4節のFC BATEボリソフ戦でEL初得点を含む、2得点1アシストの活躍で勝利に貢献した。しかし、シーズン開幕前にモデストが天津権健に移籍した影響もあり、チームは開幕から低迷が続き、最終的に最下位での降格が決定。大迫自身も25試合4ゴールという結果に終わった。
2016-17シーズン、シーズン初の公式戦となったDFBポカール1回戦では6部のBFCプロイセンと対戦し、途中出場から2得点をあげる活躍を見せた。9月21日、第4節のシャルケ04戦ではミドルシュートを決めてシーズン初得点。続く第5節のRBライプツィヒ戦でも2試合連続となる得点を決め、この活躍によりファン投票による9月のクラブ月間最優秀選手に選ばれた。10月20日、ケルンとの契約を2020年6月まで延長することが発表された。
2015-16シーズン、開幕戦のVfBシュトゥットガルト戦に途中出場して1得点をあげる活躍を見せた。しかし、その後は出場機会を失い、本来起用されていたトップのポジションではなく、トップ下やサイドハーフのポジションで起用される事も増えていた。シーズン後半には大迫がホームシックに陥り、ケルンからの移籍を希望しているとの報道までされた。結局、シーズン通して25試合1得点と大迫にとって不本意なシーズンとなった。
1月6日、ドイツ2部のTSV1860ミュンヘンへの完全移籍が鹿島から発表され、2017年7月までの3年半の契約を結んだ。移籍後リーグ戦初出場となった2014年2月10日のデュッセルドルフ戦で初得点を決めた。
加入当初は公式戦6試合で4ゴールと結果を出したものの、その後チームは低迷、自身も6試合無得点となる。監督交代後は、トップ下で起用されることが多くなるものの5試合2ゴールと復調をみせ、最終的に後半戦全試合に出場し15試合6ゴール3アシストという成績を残した。
6月5日、ドイツ1部に復帰が決まった1.FCケルンと3年契約での移籍が発表された。移籍後リーグ2試合目の2014年8月30日・VfBシュトゥットガルト戦で、1部リーグ初得点を挙げた。リーグの終盤戦にかけてチーム事情から2トップに変わり、2トップの一角としてレギュラーに定着した。
8月7日、スルガ銀行チャンピオンシップのサンパウロFC戦で、プロ入り初のハットトリックを達成。また、同月のリーグ戦で6試合6得点の活躍を見せ、初の月間MVPを受賞。さらに、自己新記録の19得点は自身初で唯一となっているリーグ2桁得点であり、Jリーグベストイレブンを受賞した。なおこの年、リーグ戦最終節の広島戦で、プロ入り初の1試合2枚の警告を受け退場した。
新人ながらコンスタントに試合に出場し3連覇に貢献したことや、9番を付けていた田代有三がモンテディオ山形に期限付き移籍したこともあり、背番号を34から9に変更。新人が2年目でレギュラーナンバー(11番以内)を付けるのは内田篤人(20→2)に続いて、チーム史上2人目であった。
Jリーグの6クラブが争奪戦を繰り広げたが、鹿島アントラーズへ加入。鹿島のスカウト担当部長である椎本邦一は、大迫のプレースタイルや総合力の高さから柳沢敦以来の衝撃を受けたと評した。
2009年、開幕戦となったFUJI XEROX SUPER CUPのガンバ大阪戦でベンチ入りし、後半44分から途中出場し公式戦デビュー。鹿島において高卒新人選手で同大会ベンチ入りは、中田浩二、青木剛以来3人目、途中出場は青木以来2人目。AFCチャンピオンズリーグ2009のグループリーグ上海申花戦では、公式戦初先発でプロ初ゴールを記録した。同年4月12日の第5節FC東京戦でJリーグ初得点を挙げ、鹿島での高卒加入者では1996年の柳沢と並ぶ高卒加入選手のシーズン最多得点(6得点)を記録した。
3歳から加世田市(現南さつま市)の万世サッカースポーツ少年団でサッカーを始め、主にトップ下でプレーしていた。中学進学前にプロを目指すことを決意。鹿児島城西高校の提携校である鹿児島育英館中学校へ進学した。中学途中からFWに転向する。
鹿児島城西高校では1年からレギュラーで活躍し、高校入学と同時にU-16日本代表にも選出された。
2007年の2年次にはJFAプリンスリーグU-18九州1部で個人得点ランキング5位の成績を残した。U-17代表候補には選ばれるものの最終選考で落選し、FIFA U-17ワールドカップの出場を逃す。
2008年、第61回鹿児島県高校総体サッカー競技大会の決勝で鹿児島実業高校を相手に5ゴールの活躍で優勝。更にJFAプリンスリーグU-18九州1部では8試合で10ゴールを記録し、得点ランキング1位に輝く活躍でチームを優勝へ導く。同年8月の埼玉総体では大会優秀選手の一人に選ばれた。同年9月の高円宮杯全日本ユース選手権準々決勝ガンバ大阪ユース戦ではハットトリックを達成した。同年秋の高校サッカー選手権鹿児島県大会では全5試合で11得点を挙げる活躍で、部史上初の鹿児島県大会3冠(新人戦・高校総体・選手権)の達成に貢献。
第87回全国高等学校サッカー選手権大会では初戦から大会史上初の4試合連続2得点を成し遂げる。準決勝でも1得点を挙げ、第78回大会の石黒智久(富山第一)と第82回大会の平山相太(国見)が持つ個人最多得点記録の9得点に並んだ。2009年1月12日に行われた広島皆実との決勝戦でも1大会最多得点記録を更新する10得点目となる先制点を挙げながらも、チームは2-3で惜敗し、決勝戦で涙を呑む結果となった。最終的に10ゴール10アシストの成績を残しチームの準優勝に大きく貢献した。当時のチームメンバーには、大迫希、鮫島晃太らがいる。