- 2017-8-30
- J1, 北海道コンサドーレ札幌, 選手名鑑
- 稲本潤一
稲本のサッカー人生は6歳の時に堺市の青英学園幼稚園でサッカーボールに触れたことから始まる。G大阪の下部組織からトップチームであるガンバ大阪に昇格し、当時最年少の17歳6か月でJリーグ初出場した。3度のW杯(02・06・10)を経験、さらに2001年から国外4カ国7クラブでプレー。2010年国内に戻り川崎フロンターレで4年間プレーした後、2015年札幌へ完全移籍。輝かしい実績、名実ともに偉大な選手であることには間違いない。プロ21年目となる2018年の彼の現在地とは。
・稲本潤一の動画
・選手紹介
・プロフィール
・プレースタイル・能力値・アビリティ
・セールスポイント・ウィークポイント・グロースポイント
・ヒストリー
・年度別来歴
・Evolving Data Other Contents
・Evolving Data Category Contents
稲本潤一の動画
選手紹介
同世代の選手が稲本にタックルをしたら逆に怪我をした。稲本のシュートをセービングしたGKが腕を骨折した。等の逸話が残っている。
「狂気の左サイドバック」と呼ばれた元日本代表、都並敏史はG大阪でデビューしたばかりの稲本潤一との対決で完敗し”引退”を決意したそう。
プロフィール
選手名 | 稲本潤一|Junichi INAMOTO |
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出身地 | 鹿児島県姶良郡 |
生年月日 | 1979年9月18日 |
身長・体重 | 181cm・77kg |
現所属チーム/背番号/利き足 | 北海道コンサドーレ札幌(J1)/#17/右足 |
プレースタイル・能力値・アビリティ
現在作成中
セールスポイント・ウィークポイント・グロースポイント
現在作成中
ヒストリー
現在作成中
年度別来歴
9月23日に行われたアルビレックス新潟戦で476日ぶりの公式戦復帰を果たした。
4月23日に行われたセレッソ大阪戦で移籍後初ゴールを挙げた。2014年に川崎時代に挙げてから748日ぶりの得点となった。しかし、6月4日に行われたジェフユナイテッド千葉戦に先発出場した際に、右ひざ前十字じん帯断裂で負傷交代。全治8カ月の大怪我となった。
レギュラーで活躍するも無得点でシーズンを終える。
2014年より本格的にセンターバックに挑戦することになり、ポジションも正式にDF登録となった。
12月4日に契約満了が発表された。
12月20日、コンサドーレ札幌へ完全移籍することが発表された
シーズン途中に風間八宏が監督に就任してから、ボールポゼッションを重視する同監督の戦術もあり、本職のボランチ以外にもセンターバックとして起用された(4月28日J1第8節広島戦)。公式戦起用はこの1試合のみで、その後はボランチに戻った。
翌年の南アフリカW杯を視野に国内復帰を模索していたところ、2010年1月12日、レンヌより川崎フロンターレへの完全移籍が発表された。
6月、フランス1部リーグのスタッド・レンヌに移籍。
9月9日の親善試合・ガーナ戦では岡崎慎司の同点ゴールをアシストし、自身6年半ぶりの代表での得点となる決勝点を挙げる活躍を見せた。レンヌでは当初は出番があったが、若手の台頭もあり、出場機会に恵まれずベンチを暖める日が続いた。
5月、同期の高原直泰が当時所属していたドイツのブンデスリーガ、フランクフルトへ2年契約で移籍。移籍会見翌日にキリンカップのための日本代表合宿に合流し、オシムジャパン初招集となる。
2006-07シーズンはトルコ1部リーグのガラタサライSKに移籍。UEFAチャンピオンズリーグ本大会に出場し1得点を記録する。2007-08シーズンも残留する予定であったが、監督退任に伴い、退団。
日韓W杯代表に選出され、W杯初出場。ベルギー戦では一時逆転となったゴールを、ロシア戦では決勝点を決め、日本の初勝ち点、初勝利、決勝トーナメント進出に貢献。
W杯後、出場機会を求めてプレミアリーグのフラムFCにレンタル移籍した。この年はW杯での活躍などからバロンドールにノミネートされた(日本人としては中田英寿に次ぎ2人目)。UEFAカップ出場権を争うインタートトカップ決勝のボローニャFC戦で、欧州では日本人初のハットトリックを達成。リーグ戦でも当初は活躍し、完全移籍目前とも言われたが、怪我もあって徐々に出場機会を失った。
2004年のイングランド戦で左足を骨折する重傷を負った事で交渉が決裂し解雇される。その後ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン、カーディフ・シティにレンタル移籍する。
以前Jリーグで監督をしていたアーセン・ベンゲルに見込まれて、イングランドプレミアリーグのアーセナルFCにレンタル移籍。
FIFAワールドユースで準優勝を果たし、シドニーオリンピック・サッカー日本代表、A代表にも招集されてアジアカップやコンフェデレーションズカップに出場。日本代表の主力選手に成長した。
ガンバ大阪の下部組織からトップチームであるガンバ大阪に昇格し、当時最年少の17歳6か月でJリーグ初出場。17歳7か月でJリーグ初得点。
生後まもなく鹿児島県から大阪に転居。6歳の時に堺市の青英学園幼稚園でサッカーボールに触れる。堺市立深井西小学校へ入学するも同校のサッカー部は5年生からであったため、稲本の才能を惜しんだ周囲が青英学園SCに参加出来るよう取り計らった。
少年時、既に体格も良く体当たりを利用したドリブルでの突破を得意としていた。同世代の選手が稲本にタックルをしたら逆に怪我をした。稲本のシュートをセービングしたGKが腕を骨折した。等の逸話が残っている。
小学校5年生時「大阪トレセン」、小学校6年生時「関西トレセン」に続き「12歳以下ナショナルトレセン」に選抜。「(ナショナルトレセンに)ごっつい奴(小野伸二)がおる」と上にはさらに上がある事実に衝撃を受ける。
周囲の勧めもあり「プロになる近道」との理由でガンバ大阪ジュニアユースに加入、当時の指導者であった上野山信行によりボランチにコンバート。
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