【選手名鑑】土居聖真の現在地|幼くして山形から鹿島へ飛び立ち、背負う伝統の背番号「8」

鹿島アントラーズジュニアユース、ユースを経てトップチームへ昇格した土居。同期には柴崎岳、梅鉢貴秀(金沢)、昌子源。2015年には小笠原満男、野沢拓也らが付けていた伝統の背番号「8」を背負う。2017年12月にはA代表初出場を果たした。伝統の背番号を背負う男の現在地とは。

目次




土居聖真のプレースタイルと選手紹介

 ゴール後の銃を撃つようなパフォーマンスは、ナイキフットボールのコンテスト応募作品の中から自身で選んだものだと自身のブログにて明らかにしている。
 
 クラブワールドカップ決勝でレアル・マドリードと対戦した際、MFイスコのユニフォームが欲しすぎて、試合前さらにハーフタイムにユニフォームを交換してくれるよう頼み、交換に成功した。

 目指すFW像は「上手い選手全般・気が遣える選手」(『Sporta』による取材)
・好きな食べ物は「ラ・フランス」
・嫌いな食べ物は「しいたけ」

 人見知り、ダジャレをよく言ってスベっているという。

土居聖真のプロフィール

選手名 土居聖真|Shoma DOI
出身 山形県山形市
生年月日 1992年5月21日
身長・体重 172cm・63kg
現所属チーム/背番号/利き足 鹿島アントラーズ/#8/右足
過去所属



当時から頭抜けた存在

 山形で生まれた土居聖真。OSAフォルトナ山形FCでプレーしていた。試合は土でやるが、冬夏関係なく体育館で練習。ドリブルや足元の技術が身についた。さらに上の世代は人数が少なく、土居は飛び級で試合に出ることが多々あり、自身はそこが大きかったと語る。
 4年からレギュラーになり、5年と6年の時に県大会で優勝。6年の時は東北大会でも優勝し、全国大会は準優勝という輝かしい成績を残し、その中でも土居は頭一つ抜けた存在だった。

幼くして山形から鹿嶋へ

 小学校で輝かしい成績を残していた土居は、セレクションを受け、ベガルタ仙台ジュニアユースに入団することが決定、家も学校もすべてが決まっている状態だった。しかし小学6年生の秋、最後の大会として出場したフットサルの全国大会が終わった後、鹿島アントラーズに目を付けられる。そしてセレクションの末、急遽鹿島アントラーズジュニアユースへ加入することが決定した。
 当時2001年頃の鹿島はジュビロと2強と言われ、その存在はあまりにも遠いものだった。その強さをテレビで見ていた幼い土居聖真にとっては驚くと共に「行きたい」という気持ちが芽生えていた。

 土居の出身である山形県山形市から茨城県鹿嶋市まで300kmを超える。
 わずか12歳の少年は“未知の世界”へ向かう道中で泣きながらも、山形を去った。

囁かれ始める“野沢拓也の再来”

 未知の世界で悩みながらも頭角を現し、ユースへ上がった土居聖真はそのパスセンス、シュートセンス、自らもドリブルで仕掛けられるというプレースタイルが野沢に似ていた為、徐々に“野沢拓也の再来”や“野沢2世”とまで呼ばれていた。
 一方の野沢拓也が所属するトップチームはJリーグ初の三連覇を果たすなど、トップチームの強さを目の前で見ていた土居はプロでやりたい、という気持ちがさらに高まってきていた。
 土居聖真はボールボーイや、試合を観戦した際、野沢のトラップ、ポジショニング、視野、パス。土居聖真は「野沢拓也」だけをひたすらに見て、真似していた。

 そしてある夏、トップチーム昇格が告げられる。
 2011年、柴崎岳、昌子源が新加入。西大伍が移籍加入。田代有三、増田誓志が復帰などそうそうたるメンバーと共に鹿島アントラーズへ入団した。

憧れの存在から受けつぐ背番号「8」

 1年目は2試合の出場にとどまるも、徐々に出場機会をものにし、2014年トップ下のポジションに定着。リーグ戦34試合に出場し8ゴールをあげた。この活躍とともに翌年2015年幼い頃テレビで見ていた小笠原満男、さらにユース時代から憧れ、真似してきた野沢拓也が背負ってきた背番号「8」を受け継いだ。同期入団の昌子源もこの年に秋田豊、岩政大樹らが背負ってきた「3」を受け継いだ。
 鹿島の背番号にはその役割、意思も込められている。昌子源は守備の要として常勝鹿島の最終ラインを統率している。
 
 土居聖真も背番号「8」に込められた役割を遂行し、常勝鹿島を勝利に導いていく。

土居聖真の動画



年度別出場成績

2018年

 【リーグ戦】26試合5ゴール2アシスト
 【ACL】10試合3ゴール
 【リーグカップ】4試合1ゴール
 【天皇杯】3試合2ゴール

2017年

 【リーグ戦】33試合3ゴール3アシスト
 【ACL】7試合1アシスト
 【クラブワールドカップ】4試合1ゴール3アシスト
 【天皇杯】3試合1ゴール2アシスト
 【リーグカップ】2試合1ゴール
 【FUJI XEROX SUPER CUP】1試合

2016年

 【リーグ戦】30試合8ゴール2アシスト
 【リーグカップ】5試合1ゴール2アシスト
 【天皇杯】5試合1ゴール
 【Jリーグチャンピオンシップ】3試合
 【スルガ銀行チャンピオンシップ】1試合

2015年

 【リーグ戦】27試合6ゴール6アシスト
 【ACL】6試合3ゴール2アシスト
 【リーグカップ】2試合
 【天皇杯】1試合

2014年

 【リーグ戦】34試合8ゴール5アシスト
 【リーグカップ】6試合1ゴール1アシスト
 【天皇杯】1試合

2013年

 【リーグ戦】15試合2ゴール1アシスト
 【天皇杯】2試合
 【リーグカップ】1試合
 【スルガ銀行チャンピオンシップ】1試合

2012年

 【リーグ戦】4試合
 【リーグカップ】2試合
 【天皇杯】2試合1アシスト

2011年

 【リーグ戦】2試合

代表歴

出場大会

U-16日本代表
2007年 AFC U-17選手権2006予選
U-17日本代表

日本代表

2017年 – EAFF E-1フットボールチャンピオンシップ2017



年度別来歴

2019年

 

2018年

 

2018年

 12月7日、清武弘嗣が脳震盪で離脱したためEAFF E-1フットボールチャンピオンシップ2017に向けた日本代表に追加招集され、これがA代表初選出となった。12月12日、中国戦で代表デビューを果たした。

2016年

 6月25日のアビスパ福岡戦では2トップとして先発し、1stステージ優勝を決定づける2点目を決めて優勝に貢献した。12月29日、天皇杯・準決勝の横浜F・マリノスでは先制ゴールを決めて決勝進出に貢献した。FIFAクラブワールドカップでは3試合に出場し、1得点3アシストの活躍を見せた。

2015年

 小笠原満男や野沢拓也がつけていた伝統の8番を背負う。2月25日、AFCチャンピオンズリーグ2015のウェスタン・シドニー・ワンダラーズ戦でACL初ゴールをあげた。同年の石井正忠監督就任後はフォーメーションの4-4-2への変更に伴い、FWでの起用が多くなっている。

2014年

 トップ下のポジションに完全に定着し、リーグ戦では自身最多の8ゴールをあげた。

2013年

 9月21日、ジュビロ磐田戦でプロ初ゴール。

2011年

 2011年、鹿島アントラーズユースからトップチームに昇格した。同期は柴崎岳(ヘタフェ)、梅鉢貴秀(金沢)、昌子源(鹿島)。

プロ前

 地元を離れ、鹿島アントラーズのジュニアユースへ加入。



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