河合竜二の現在地|怪我と闘い、自らとチームと向き合う闘将のスタイル

 河合のプロ人生は1997年に始まる。浦和レッズに入団するも念願の初出場はプロ4年目だった。しかし、監督の退任などで浦和で出場できたのはわずかに数十試合に終わる。2003年にトライアウトの末横浜FMへ入団する。そしてプロ7年目にして公式戦初ゴールを決めた。この年はリーグ優勝。さらに翌年も浦和に恩返しゴールを決め、2年連続の優勝を果たす。横浜FMではキャプテンも任されることも。2011年にコンサドーレ札幌へ加入する。2017年に大怪我を負い、2018年6月に復帰を果たす。
 今年がプロ21年目。3度の昇格、2度の降格、大怪我と闘い、45歳までやりたいと語る彼の現在地とは。

目次
・河合竜二の動画
・選手紹介
・プロフィール
・プレースタイル・能力値・アビリティ
・セールスポイント・ウィークポイント・グロースポイント
・ヒストリー
・年度別来歴
・Evolving Data Other Contents
・Evolving Data Category Contents

河合竜二の動画




選手紹介

プロフィール

選手名 河合竜二|Ryuji KAWAI
出身地 東京都板橋区
生年月日 1978年7月14日
身長・体重 183cm・75kg
現所属チーム/背番号/利き足 北海道コンサドーレ札幌(J1)/#4/右足

プレースタイル・能力値・アビリティ

 現在作成中



セールスポイント・ウィークポイント・グロースポイント

 現在作成中

ヒストリー

 現在作成中

年度別来歴

2019年

2018年

 6月21日全体練習に完全合流した。ミニゲームではセンターバックに入り、負傷以来の実戦練習を行った。「第1歩としては良かった」と笑顔を見せた。

2017年

 11月18日(土)に行われた第32節清水エスパルス戦で左足腓骨(ひこつ)骨折、左足三角靱帯(じんたい)損傷という大怪我を負う。全治4~5ヶ月の長期離脱。

2013年

 この年もキャプテンを任される事が決まり、1歳上の砂川誠と共に年長者として大幅に若返ったチームを牽引しながらJ1昇格を目指す。
 4月14日J2第8節徳島戦で負傷退場し長期離脱を余儀なくされると、この負傷の影響が長引きリーグ戦終盤までの多くの試合を欠場する事となった。
 10月にはコンディションを取戻しスタメンに復帰する。以降は最終節まで全試合で起用され11月以降の全試合を無失点に抑え続け、終盤にはチームとしてこのシーズン初めての3連勝を収めるなど攻守を支えた。
 多くの試合を欠場するもシーズン中の9月にはクラブから契約延長のオファーを受けた事が報道によって明らかになっており、シーズンオフの12月30日は正式にクラブから契約更新した事が発表された。

2012年

 前年に続きこの年も札幌のキャプテンを務め、チームの中心選手として攻守を支え続けるも一向にチームの勝利には結びつかず、Jリーグ史上最速降格記録を更新するなど非常に厳しいシーズンとなる。
 7月7日J1第17節新潟戦で負傷退場を喫してしまい長期離脱を余儀なくされるも、戦列復帰後も主力選手として起用され続け、9月29日のJ1第27節川崎戦で敗戦しJ2降格が決定してしまう。
 シーズンオフにはJ2降格による緊縮財政に伴い多くの主力選手が退団するが、河合は「移籍をすることは少しも考えなかった」として札幌残留を明言。
 12月28日には契約更新の旨がクラブから正式に発表され、翌シーズンも引き続き札幌で戦う事が決まった。

2011年

 背番号は前年に石川直樹が背負っていた4を与えられ、ミッドフィールダーとして登録。
 クラブから河合はチームの中心選手として期待され、監督の石崎信弘からの指名により 札幌加入初年度ながらキャプテンを任される事に。河合と同じくこの年に移籍加入した若手の山下達也と共に開幕戦から不動のセンターバックとして守備を支え続け、一時はチームの失点数もリーグ最少を記録する。
 10月30日のJ2第33節熊本戦では前半13分に先制点となる豪快なミドルシュートを決め勝利に貢献。これが河合のJ2初ゴールであった。これらの活躍もあってチームは好調を維持し続け、12月3日のJ2最終節F東京戦で勝利を収めた事で3位が決定しJ1昇格を果たす。
 最終的にこのシーズンはリーグ戦の全38試合のうち累積警告により出場停止となった1試合を除く全試合にスタメンで起用され、出場時間もチームトップの山下達也に次ぐ3,326分に到達するなど、チームの中心選手として札幌のJ1昇格には欠かせない大活躍のシーズンとなった。

2010年

 木村和司が新監督に就任するとこれまでと一転して出場機会が激減し河合にとっては苦しいシーズンに。リーグ戦の後半まで河合にはほとんど出場機会を与えられず控えメンバーに留まった。
 12月28日にコンサドーレ札幌へ移籍する事が横浜FM、札幌の双方のクラブから発表された。

2009年

 前年に続きこの年もキャプテンを務め、主力ボランチとして活躍を期待されたが、リーグ戦の開幕直前に右内側側副靭帯損傷の大けがを負い長期離脱を余儀なくされる。
 8月16日のJ1第21節F東京戦でベンチ入りすると、続く8月19日のJ1第22節大宮戦でスタメンに起用されシーズン初出場を果たし、以降はスタメンに定着し最終節までリーグ戦を戦い抜いた。

2008年

 前年をもって退団した上野良治が長きに渡り背負っていた背番号6を継承し、また、横浜FMのキャプテンを中澤佑二より引き継いだ。しかし開幕前のキャンプで左ひざの怪我を負い離脱するとリーグ戦前半の多くの試合を欠場。
 5月17日J1第13節京都戦の後半23分に松田直樹に替わり途中出場で公式戦復帰を果たし、以降は最終節まで出場停止で欠場した試合を除く全試合にスタメンで起用された。
 ヤマザキナビスコカップではシーズン中盤の不振もあってベスト8に留まったが、天皇杯にも主力として起用されベスト4入りに貢献した。

2007年

 攻守の要としてリーグ戦の全34試合のうち累積警告による出場停止で欠場した1試合を除く33試合でスタメン起用された。3月3日のJ1開幕戦となった甲府戦でボランチとして先発に起用されると90分間戦い抜き勝利に貢献。河合にとってはこれがプロ11年目にして初の開幕スタメンフル出場となった。
 11月24日J1第33節新潟戦では決勝点となるゴールを挙げ勝利に貢献。河合にとってはこの試合でJ1リーグ戦通算100試合出場を達成しており、自らのゴールでメモリアルに花を添える形となった。
 ヤマザキナビスコカップの予選、出場した試合ではボランチとして欠かせない働きを見せ、予選グループを1位通過。決勝トーナメントにも主力として起用され前年に続くベスト4入りに貢献した。
 

2006年

 4月以降は主力として出場した試合では全てスタメンで起用され、ボランチでプレーする機会も多くなりマグロン、那須大亮、上野良治らとダブルボランチを組んだ。
 ヤマザキナビスコカップにも予選リーグから主力として起用されベスト4入りに貢献、天皇杯でも横浜FMが登場した4回戦以降の全試合に主力として起用されベスト8入りに貢献した。

2005年

 前年終盤の活躍と、多くの選手が代表招集や負傷で離脱していた事もあり、2月のA3チャンピオンズカップに主力メンバーとして栗原勇蔵、中西永輔と共に3バックに起用され2試合で1失点に抑える活躍を見せる。

2004年

 リーグ戦開幕前の2月に負傷し離脱を経験するが、この頃チームはACLの予選とA3チャンピオンズカップを並行して戦っており、また、試合日程と代表招集が重なり多くの主力選手が不在のまま戦いを余儀なくされた事などから河合はACLを戦う主力メンバーとして起用される。
 リーグ戦では、この年にベテランの中西永輔が移籍加入した事もあり出場試合数こそ前年を下回ったものの、1stステージで先発起用された全3試合では相手攻撃陣を無失点に抑え勝利に貢献するなど起用に応える働きを見せ、チームは前年に続きこのステージでも優勝を果たした。2ndステージでは序盤こそ試合出場はなかったが、勝ち切れない試合が続き順位を落とすと先発に起用されるようになり最終節までチームを支えた。最終的に2ndステージを6位で終えた為、このステージで優勝した古巣浦和とチャンピオンシップを戦う事が決定すると、河合はこの重要な2試合でフル出場し中澤佑二、松田直樹と共に3バックの一角を担い攻守に渡り欠かせない働きを見せた。12月5日の第1戦では後半21分に奥大介の右からのコーナーキックをヘディングシュートで決め、このゴールがチームを勝利に導く値千金の決勝点となり、同時に古巣浦和に初めて挙げた恩返しゴールとなった。守備でも浦和の攻撃陣を無失点に抑え、続く12月11日の第2戦でも、浦和に同点に追いつかれるも以降は延長戦に入っても追加点を許さずPK戦の末に勝利を収める。起用に応える活躍でチームを2年連続年間優勝に導く原動力となった。

2003年

 2002年12月12日に実施された1度目のトライアウトでは移籍先は見つからず、翌2003年1月9日に実施された2度目のトライアウトを経て、この年から横浜F・マリノスの監督に就任する事が決定していた岡田武史より誘いを受け入団する。1月21日に河合の獲得を正式に発表。背番号は35を与えられ再びディフェンダーとして登録。
 天皇杯にも3回戦以降の全試合にスタメン起用され、同3回戦の市立船橋高校戦の前半6分に先制点を決め、プロ7年目にして公式戦初ゴールを挙げた。
 リーグ戦では出場機会に恵まれないままチームは1stステージ優勝を果たすが、2ndステージに入りセンターバックの主力を務めていた松田が負傷と体調不良の影響によりコンディションを落とす。代役としてほとんどの試合に起用される。松田不在の穴を埋める活躍を見せチームの2ndステージ優勝に貢献した1人となった。

2002年

 オフトが監督に就任すると構想外となり、同年末をもって浦和を契約満了となった。

2001年

 前年をもって横山が総監督を退任し、新しくチッタが監督に就任すると河合が試合で起用される事は1度もなくなってしまう。

2000年

 新監督に斉藤和夫が就任し、登録ポジションをミッドフィールダーに変更するとプロ4年目にして念願の出場機会が訪れる。主力ボランチとして起用されていた石井俊也が累積警告で出場停止となると、さいたまダービーとなった5月22日J2第14節大宮戦で監督の斉藤は河合をボランチでスタメンに抜擢。この試合をきっかけに以降の試合でも徐々に起用されようになり主力に定着した。
 10月に横山謙三が総監督に就任するとリーグ戦でこそ控えに留まったものの天皇杯では積極的に起用され4回戦進出に貢献する。この年チームは最終的にJ1昇格を達成し、翌年以降の飛躍を期待させるシーズンとなる。

1999年

 3年目の1999年はチームが不振に陥りJ2降格を喫してしまう中で、シーズン途中には監督がア・デモス、吉田靖と相次いで交代し、9月23日のJ1-2nd第10節G大阪戦で初めてベンチ入りを果たすが河合が起用される事はこの年も一度もなかった。

1998年

 新監督に原博実が就任するがこの年も出場機会は与えられず。

1997年

 高校時代の活躍を認められ田畑と共に地元の浦和レッドダイヤモンズに入団。高卒新人の同期には田畑の他、永井雄一郎、三本菅崇がおり、ポジションはディフェンダーとして登録され背番号は33を与えられた。当時の浦和はケッペル監督の下、守備陣には元ドイツ代表のブッフバルト、ユーゴスラビア代表のペトロビッチをはじめ、西野努らがおり、守備的な中盤でもベテランの堀孝史、広瀬治をはじめ、土橋正樹、阿部敏之、石井俊也らがおり、これらの実力者とポジションを争う事となった。

プロ前

 近所にあった帝京高校のサッカー部の練習を幼少の頃から両親に連れられ観に行っていたという環境の下で育てられ 、埼玉県鶴ヶ島町(現・鶴ヶ島市)に転居直後の4歳の時にサッカーを始める。
 小学3年生から地元のFC鶴ヶ島に所属し、6年生次には全日本少年サッカー大会の決勝大会に出場しベスト8入りを果たしている。
 卒業後は地元の鶴ヶ島中学校に進学しサッカー部に入部。2年生でレギュラーを勝ち取り、当時はフォワードでプレーしていた。
 中学卒業後は西武台高校へ進学し同級生の田畑昭宏と共にサッカー部に所属。1995年の2年生次にはインター杯で準優勝を経験し、個人としても埼玉県選抜に選ばれ国体に2年連続出場するなど活躍していたが、全国高等学校サッカー選手権大会への出場は1度も叶わなかった。






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