幼い頃のきっかけでGKとしての責任が芽生える。その責任感の強さゆえにオーバートレーニング症候群という心身ともに疲労しきった状態に陥る。これを乗り越えホルンへ渡欧。海外でプレーすることを望み、FC東京との契約を解除するも海外ではクラブが決まらず。日本に帰国しサガン鳥栖へ。涙の謝罪を経て進む、彼の現在地とは。
権田修一のプレースタイルと選手紹介
好きなサッカー選手はデンマークのピーター・シュマイケル、「守りながら常に攻撃のことを考えている」ドイツのマヌエル・ノイアー、ビルドアップに長けるマルク=アンドレ・テア・シュテーゲン。
目標にしている選手はオーストリアのロベルト・アルマー。
ホルンではスロベニア代表GKコーチニハード・ペコヴィッチの指導を受けており、兄弟子に当たる同代表GKサミール・ハンダノヴィッチ及びヤン・オブラクを参考にしている。
FC東京のゴール裏で謝罪した際、土下座をしたという報道もあったが、本人は否定。それには
「ホルンに行ってからも、ずっと国際郵便で手紙を送ってくれていた女の子のファンがいた。僕は前から『FC東京が優勝できるように頑張る』と話してきた。その女の子が、僕の背番号1が入ったFC東京時代のユニフォームを掲げて、スタンドで立っていた。それが目に入った瞬間に、いたたまれなくなった。立っていられなくなった」と語っている。
権田修一のプロフィール
選手名 | 権田修一|Shuichi GONDA |
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出身 | 東京都世田谷区/td> |
生年月日 | 1989年3月3日 |
身長・体重 | 187cm・83kg |
現所属チーム/背番号/利き足 | サガン鳥栖/#20/右足 |
過去所属 | 2007-2016 FC東京 2016 SVホルン 2017- サガン鳥栖 |
全責任を背負うきっかけ
幼稚園生のころにさかのぼる。バスケットボール選手の両親を持つスポーツ一家で育った権田は、身体的にも恵まれ、周りより身長が大きかったこともありGKに任命された。小学4年生。彼はさぎぬまサッカークラブに所属。当時のマリノスカップに出場した際、PKを止めたことからベストゴールキーパー賞に選ばれた。すると周りのGK達もこの賞が獲りたかったことを知る。このことを知った彼は、自分がGKであることに使命感・責任が芽生え始める。
そして小学6年生。全国大会につながる試合で負けてしまう。点を決められ、悔しかった権田は周りのチームメイトに当たってしまう。この光景を見た母に、帰りの道中、車の中で言われる。
「人を責める前に、キーパーなんだから自分でまず止めてみなさいよ。それは自分が止めるのを諦めているのと一緒だよ」
これを聞いた少年は、PKであっても「失点したら、すべては自分のせい」と考えるようになった。
責任感ゆえの「オーバートレーニング症候群」
さぎぬまサッカークラブからFC東京のジュニアユース、ユース、そして2007年トップチームへ正式に昇格をした権田修一。2009年に出場機会を得始め、同年に行われたナビスコカップで優勝に貢献するなど飛躍の年なる。2009年以降からFC東京の守護神・正GKとして君臨した権田だったが、同時に彼には大きな大きな責任がのしかかっていた。2012年に就任したランコ・ポポヴィッチ監督から「日本でNo.1のGK」と高い評価を得るほどに権田は成長していった。
2015年7月29日のJ1第5節ベガルタ仙台戦後、当時の監督マッシモ・フィッカデンティとの衝突の末、権田は体調不良を訴えた。診断結果は「オーバートレーニング症候群」 権田の体は心身が極度に疲労した状態。合流予定だった日本代表(東アジアカップのため中国に遠征)からも離脱した。
幼い頃から責任感が強く、FC東京で守護神の座を得ていた彼はいつの間にか自身を追い込んでいたのだろう…
FC東京へ涙の謝罪
FC東京で9シーズンを過ごした権田は、オーバートレーニング症候群から徐々に回復すると本田圭佑がオーナーを務めるオーストリアのSVホルンへの期限付き移籍を決意する。2016年3月4日第17節で初出場を果たすも、3月11日第18節SVオーバーヴァルト戦で右脛骨を骨折。15-16シーズンは2試合。16-17シーズンで復帰し正GKとしてチームに貢献するもレンタル期間がこのシーズンで終了。FC東京へレンタルバックする予定だった。
しかし、欧州でプレーすることが夢だった権田はFC東京との契約を解除し、欧州のクラブでプレーすることを決意。ところが権田の移籍先は欧州の冬の移籍市場が閉まっても決まらなかった。無所属となっていた権田はシーズン開幕前の日本に戻る。ここで権田を受け入れたのはサガン鳥栖。大半のJリーグクラブは編成を済ませている状態、鳥栖はGK林をFC東京に放出したばかりであり権田を受け入れられる状態だった。
FC東京は権田の欧州でプレーしたいという「本人の望み」のために契約を解除したが、2017年気づけばFC東京の権田ではなく「鳥栖の権田」になっていた。さらに一度契約を解除してからの、移籍金の伴わない「フリートランスファー」だったためFC東京には一銭も入らないという放出損でもあった。
「鳥栖のGK権田」は古巣との初対戦となったJ1第5節のFC東京戦の終了後、1人でFC東京のゴール裏に向かい不義理な移籍を涙を流しながら謝罪した。
サガン鳥栖の権田修一
2017年鳥栖へ加入してから、権田は「FC東京の権田修一」でもなく「ホルンの権田修一」でもなく「サガン鳥栖の権田修一」としてプレーしている。さらに鳥栖の監督は2016年からFC東京時代衝突したマッシモ・フィッカデンティ監督。主張しあい、ぶつかりあった2人にはミステル(フィッカデンティの呼び名:イタリア語で監督)マッシモと呼ぶなど固い絆のようなものも生まれている。
権田修一はGKとしての責任・覚悟をもってサガン鳥栖のゴールマウスを守り続けていく。
権田修一の動画
年度別出場成績
【リーグ戦】29試合31失点クリーンシート9試合
【リーグカップ】3試合6失点
【天皇杯】3試合1失点クリーンシート2試合
(2018年10月19日現在)
【エアステリーガ】15試合23失点クリーンシート2試合
【オーストリア・カップ】1試合2失点
【リーグ戦】33試合40失点クリーンシート10試合
【リーグカップ】4試合7失点
【天皇杯】2試合2失点クリーンシート1試合
【レギオナルリーガ】2試合1失点クリーンシート1試合
【リーグ戦】22試合24失点クリーンシート7試合
【リーグカップ】5試合3失点クリーンシート2試合
【リーグ戦】33試合29失点クリーンシート14試合
【天皇杯】3試合2失点クリーンシート2試合
【リーグ戦】33試合47失点クリーンシート9試合
【リーグカップ】2試合1失点クリーンシート1試合
【リーグ戦】31試合37失点クリーンシート9試合
【ACL】5試合6失点クリーンシート1試合
【リーグ戦】20試合14失点クリーンシート11試合
【天皇杯】5試合3失点クリーンシート3試合
【リーグ戦】30試合36失点クリーンシート8試合
【リーグカップ】7試合5失点クリーンシート3試合
【天皇杯】2試合2失点クリーンシート1試合
【スルガ銀行チャンピオンシップ】1試合2失点
【リーグ戦】34試合39失点クリーンシート15試合
【リーグカップ】10試合9失点クリーンシート4試合
代表歴
U-14日本ユース選抜
2002年 – U14アジアユースフェスティバル
U-15日本代表
2003年 – ブラジル日本友好カップ
U-16日本代表
2004年 – モンテギュー国際大会 (優勝)
2004年 – ミルクカップ (5位)、
2004年 – 北海道国際ユースサッカー大会 (優勝)
2004年 – AFC U-17選手権2004 (GL敗退)
U-17日本代表
2005年 – サニックス杯 (離脱)
U-18日本代表
2007年 – AFC U-19選手権予選
U-19日本代表
2008年 – カタール国際ユーストーナメント (優勝)
2008年 -フルーナベイヘン国際ユース大会 (7位)
2008年 – SBSカップ (準優勝)
2008年 – 仙台カップ国際ユースサッカー大会 (準優勝)
2008年 – AFC U-19選手権2008 (ベスト8)
U-20日本代表
2007年 – 2007 FIFA U-20ワールドカップ (離脱)
2009年 – 国際親善試合
U-22日本代表
2011年 – ロンドンオリンピックアジア二次予選、最終予選
U-23日本代表
2012年 – ロンドンオリンピックアジア最終予選
2012年 -ロンドンオリンピック(4位)
2010年 – AFCアジアカップ予選
2011年 – AFCアジアカップ2011 (優勝)、2014 FIFAワールドカップ・アジア3次予選
2012年 – 2014 FIFAワールドカップ・アジア4次予選
2013年 – 2014 FIFAワールドカップアジア4次予選、FIFAコンフェデレーションズカップ2013 (GL敗退)、東アジアカップ2013 (優勝)
2014年 – 2014 FIFAワールドカップ (GL敗退)、AFCアジアカップ2015 (予備登録)
2015年 – 2018 FIFAワールドカップ・アジア2次予選
2016年 – 2018 FIFAワールドカップ・アジア3次予選予備登録
2017年 – EAFF E-1フットボールチャンピオンシップ2017
年度別来歴
1月、ヨーロッパでのプレーを希望して契約解除を申し出た。クラブは権田の意向を尊重する方針だったため合意解除となった。
ヨーロッパでの移籍先が見つからず、2月に帰国。夏の移籍期間まで無所属となることを覚悟していたが、サガン鳥栖から熱意あるオファーが届き同クラブへ移籍加入。古巣との初対戦となったJ1第5節のFC東京戦では、古巣サポーターへ不義理な移籍を謝罪し感謝を述べた。
本田圭佑の熱望を受けて2016年1月にオーストリア・SVホルンへ期限付き移籍。初先発となった3月4日、第17節SKラピード・ウィーンⅡ戦で完封勝利したが、続く同月11日第18節SVオーバーヴァルト戦で右脛骨を骨折。2015-16シーズン中の回復は間に合わず、同シーズンの出場はこの2試合に留まったが、権田はホルンの日本人新監督濱吉正則の指導に戸惑うオーストリア選手との橋渡し役を務め信頼を集めた。
高いセーブ率で失点の大幅減に成功。2015年より塩田の退団に伴い背番号を「1」へ変更。1stステージでは全試合フル出場を続けたが、同年7月にオーバートレーニング症候群を発症し、離脱。3ヶ月ほどで復調の兆しを見せたが戦列には復帰できなかった。
J1に復帰した2012年は、新たに就任したランコ・ポポヴィッチ監督から「日本でNo.1のGK」と全幅の信頼を寄せられ、レギュラーを確保。しかし、塩田との間に差は無いとも評され、2013年の天皇杯では塩田の好守でチームがベスト4に進出する中、出場機会は無かった。また、2012年12月にドイツ・シュトゥットガルトとイタリア・エラス・ヴェローナの練習に参加。
J2に降格して迎えた2011年は若手の代表として副将を務めた。シーズン当初はレギュラーで出場していたが、ロンドンオリンピック予選の招集を機に塩田にレギュラーを奪われ、A代表選手がクラブでは控えという状況にもなった。
シーズン終盤に差し掛かり再び正GKの座を奪取。塩田とのポジション争いは1年を通して続いた。J2では力の差を見せつけ、2位に大差をつけて1年でJ1に復帰した。
開幕から引き続き正GKとしてプレーしていたが、勝ちきれない試合が多く8~9月にかけてはわずか勝ち点2しか挙げられず未勝利に終わるなど低迷。最終節では既に降格が決まっていた京都に敗れJ2降格が決まった。
1月下旬に塩田が虫垂炎及び麻痺性腸閉塞による長期離脱を強いられ、更に阿部伸行もコンディション不良が目立ったことから、権田が開幕スタメンに抜擢され公式戦デビューすることとなった。その開幕戦ではアルビレックス新潟に4失点、第2節も浦和レッドダイヤモンズに3失点で開幕2連敗と苦いデビューとなったが、第3節でJ1初昇格のモンテディオ山形に完封勝利して以降は落ち着いたプレーを取り戻し、シュートに対する鋭い反応でチームに貢献。出場時間が規定に達しプロA契約選手となった。実質のデビューシーズンであったが、年間15完封というJ1リーグの個人記録(タイ記録)を達成し、チームの5位躍進に貢献。川崎フロンターレとのナビスコカップ決勝でもフル出場。チーム5年ぶりの優勝に貢献するとともにプロ初タイトルを獲得。無失点に抑え、当時の鬼武健二チェアマンからはMVP級の活躍だったと評価された。
2007年国士舘高校に在学しながらFC東京トップチームに正式に昇格となった。FC東京初の「平成生まれの選手」でもある。同年シーズン終盤にはサブとして公式戦ベンチ入りも果たした。
バスケットボール選手の両親を持つスポーツ一家で育つ。
小学校時は川崎市内のサッカークラブに所属していたため、GKとして川崎市選抜・神奈川県選抜に選ばれていた。当時のお気に入りはアメリカ代表のトニー・メオラ。
ユースチーム加入時には、横浜F・マリノスと川崎フロンターレのユースチームにも合格し、さらに神奈川県選抜時の監督から湘南ベルマーレへの勧誘を受けていたが、小学校時に近所のサッカースクールにFC東京がコーチングスタッフを派遣しており、権田が浅野寛文GKコーチの指導に好印象を受けた事と、そのスクール生には観戦チケットがプレゼントされ、駒沢陸上競技場にてJ2時代のFC東京の試合を生観戦したことなどが決め手となり、FC東京U-15への入団を選択した。2003年のクラブユース選手権で優勝し日本一を経験。