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【選手名鑑】田中隼磨の現在地|背番号「3」の覚悟、松本山雅FCで2度目のJ1へ

 J2第41節。後半27分石原の折り返しに反応し、決勝ゴールとなるゴールを決めた彼はピッチに膝を付き、誰よりも喜びを爆発させた。松本山雅FCのレジェンド松田直樹の背番号「3」を背負う男、田中隼磨である。

 そして第42節ホーム、緑に染まったサンプロ アルウィンにてJ2初優勝、J1昇格。チーム最年長の36歳。ここまでの道程は決して楽なものではなかった。背番号「3」の覚悟。松田直樹ともに歩んできた田中隼磨のこれまでを振り返る。



 

田中隼磨のプレースタイルと選手紹介

 アテネオリンピック代表候補時代、持久力の指標となるVMAテスト(有酸素運動時における最大スピード測定)で25本という記録をマークしている。これは当時日本代表選手でトップのスタミナを持っていた加地亮の記録(23本)を超える。日本でも屈指のスタミナを持つDF。

田中隼磨のプロフィール

 

選手名 田中隼磨|Hayuma TANAKA
出身 長野県松本市
生年月日 1982年7月31日
身長・体重 174cm・64kg
現所属チーム/背番号/利き足 松本山雅FC/#3/右足
過去所属 2001-2008 横浜F・マリノス
2002-2003 東京ヴェルディ1969(レンタル)
2009-2013 名古屋グランパス



始まりは横浜F・マリノス

 田中はFC松本ヴェガ、横浜フリューゲルスのユース、横浜マリノスと正式合併して消滅。その後横浜F・マリノスユースを経て、2001年横浜F・マリノスのトップチームに昇格した。
プロ1年目ながらもリーグ16試合に出場するも、翌年2002年は出場機会に恵まれず6月に東京ヴェルディへレンタル移籍。2004年に横浜F・マリノスへ復帰してから、主力として活躍、横浜F・マリノスの不動の右サイドとして、GK榎本達也、DF松田直樹、中澤佑二、MF奥大介、ドゥトラ、FW坂田大輔らとともに横浜F・マリノスを牽引した。
 2009年1月、ユースから10年間所属していた横浜FMから3年契約の完全移籍で名古屋グランパスに移籍。

 そして2011年悲劇が起こる。

松本山雅FCへ

 「なにも言葉が出てこない」

 2011年8月4日松田直樹が他界――。2011年松田は当時JFLの松本山雅FCでプレーしていた。8月2日の練習中に突然倒れ、心肺停止状態、救急搬送されたものの4日に急性心筋梗塞により他界。同じ横浜F・マリノスでプレーし、その熱き背中を見、ピッチ上でよく喧嘩をしあった田中にとっては、とてつもなく辛いものであった。

 2013年、田中は加入1年目から名古屋でのレギュラーを確保していたが、契約非更新を告げられてしまう。J1の複数クラブからオファーがあったが、2014年あるクラブへ移籍を決意。地元長野県松本市、そして松田直樹が最後にプレーしていた「松本山雅FC」だった。サッカー不毛の地とも言われた長野県をJ1へ、そしてなにより松田の目標でもあったJ1昇格を叶えるために。

 背番号は、松田直樹の母や姉から「もし山雅に行くのならぜひ3番をつけてください。直樹も絶対に喜ぶに違いありませんから」と後押しを受け、背番号「3」、覚悟とともに松本山雅FCへ入団した。

松本山雅FC1年目でJ1昇格

 「ナオキが行きたかったところに連れてきてやったよ」

 松本山雅FCは11月1日のJ2第39節でアビスパ福岡を1-2で破り、昇格を決めた。その瞬間ユニフォームを脱ぎ、前には「ありがとう松田直樹」背面には「3松田直樹」と書かれた、名古屋時代から毎試合着用していた白いアンダーシャツ姿になり、天国で見守ってくれているであろう松田へJ1昇格を報告した。
 この2014年シーズン、主力として活躍し2014年39試合に出場し5アシスト。J2で一番活躍した選手に贈られるJ2 Most Exciting Playerを受賞、クラブとしては史上初のJ1昇格。クラブの昇格に大きく貢献した。J2加入後3年でのJ1昇格は、当時J1からの降格クラブを除くと、史上最速だった。
 
 さらに自身は同年5月24日に行われたJ2第15節ジュビロ磐田にて負傷。右ひざ半月板損傷だった。通常ではプレーをせず、手術を受け全治約3ヶ月という大怪我を負っていた。松田の古傷でもあった右ひざ半月板損傷を田中は、「マツさんに試されているんだと思った。『なんでこんないたずらするんだ』とも思った」と自分の身体に鞭を打ち、右ひざにたまる水を抜き、無数の痛み止めとともに「自宅の階段を上り降りするのも辛い」と語るほどボロボロの身体でピッチへ立ち続けた。
 松本出身、そして松田直樹の遺志、そして背番号「3」を受け継いだ田中は、他人には分からない責任、プレッシャーがあったことだろう。彼は、松本山雅FCの「昇格」の為に…自身のサッカー人生を懸けていた。

 昇格を決めるまで立ち寄らないと自分で決めていた盟友松田直樹の眠る場所へ訪れ、J1昇格を報告した。

 

J2初登頂、そして2度目のJ1へ

 「次は松本でJ1のシャーレを掲げたい」
 
 2015年シーズンJ1昇格を果たすも、チームは34試合7勝7分20敗の16位。田中は34試合全試合に出場したが、悔しくも昇格1年目でJ2降格が決定してしまった。「J1ではまだまだ通用しなかった。でも、選手ひとりひとりがそれを強く感じることができれば成長できる。この悔しさをチームの成長につなげていきたい」と語り、J2でのシーズンを迎える。
 2016年シーズンからJ2での戦いが始まった。第25節から調子を上げ、最終節までに黒星はわずか1試合とリーグ3位につけ、プレーオフ進出を決めるも1回戦でリーグ6位の岡山と対戦、1-2で敗れ1年でのJ1復帰を逃した。
 翌2017年。一時はプレーオフ進出圏内に入るも、リーグ終盤第37節千葉戦にて5-1と大敗。以降の試合で失速。リーグ戦最後の6試合を1勝2分3敗という成績で8位。プレーオフ進出すら出来なかった。

 そして2018年。リーグ開幕6試合勝利なしというまさかのスタートを切るも、第7節大宮アルディージャに3-2でシーズン初勝利を収めてからシーズン終了となる42節までに喫した黒星はわずか『5試合』。21勝14分7敗でJ2制覇。田中は、23試合に出場し2ゴール。一時はポジションを失いかけるも、ポジションを奪い、第31節から最終節までフル出場。チーム最年長36歳が奮闘した。

 リーグ最終戦ホームに徳島ヴォルティスを迎えた一戦では0-0のドローに終わったが勝ち点差の関係で4年ぶりのJ1自動昇格。「天国にいるマツさんは、最後勝てなくて『情けないな』と言っていると思う。まだまだ力が足りないなって。このままではダメだということ」と、自他ともに認める負けず嫌いの性格であった松田直樹の遺志は田中隼磨にも受け継がれている。

 来シーズン、田中は37歳。昇格という目標を達成した男の次の目標は『松本でJ1のシャーレを掲げること』 

 松本山雅FC背番号3『松田直樹&田中隼磨』の戦いはまだまだこれからである。

田中隼磨の動画

 

年度別出場成績

 

2018年

【リーグ戦】23試合2ゴール1アシスト
【天皇杯】2試合

2017年

【リーグ戦】40試合1ゴール3アシスト
【天皇杯】1ゴール

2016年

【リーグ戦】28試合1ゴール4アシスト
【プレーオフ】1試合

2015年

【リーグ戦】34試合5アシスト
【天皇杯】4試合
【ヤマザキナビスコカップ】2試合

2014年

【リーグ戦】39試合4アシスト
【天皇杯】1試合

2013年

【リーグ戦】34試合1ゴール3アシスト
【ヤマザキナビスコカップ】5試合

2012年

【リーグ戦】31試合1ゴール1アシスト
【ACL】6試合
【天皇杯】3試合
【ヤマザキナビスコカップ】1試合

2011年

【リーグ戦】34試合1ゴール2アシスト
【ACL】6試合
【天皇杯】3試合
【ヤマザキナビスコカップ】2試合
【FUJI XEROX SUPER CUP】1試合

2010年

【リーグ戦】33試合2アシスト
【天皇杯】2試合

2009年

【リーグ戦】29試合
【ACL】9試合
【ヤマザキナビスコカップ】2試合

2008年

【リーグ戦】32試合1ゴール
【ヤマザキナビスコカップ】8試合1ゴール

2007年

【リーグ戦】32試合2ゴール
【ヤマザキナビスコカップ】9試合

2006年

【リーグ戦】34試合5ゴール
【ヤマザキナビスコカップ】9試合2ゴール

2005年

【リーグ戦】31試合1ゴール
【ヤマザキナビスコカップ】4試合
【FUJI XEROX SUPER CUP】1試合1ゴール

2004年

【リーグ戦】23試合1ゴール
【ヤマザキナビスコカップ】5試合
【Jリーグチャンピオンシップ】2試合

2003年

【リーグ戦】10試合
【ヤマザキナビスコカップ】3試合

2002年

【リーグ戦】15試合
【ヤマザキナビスコカップ】2試合

2001年

【リーグ戦】16試合
【ヤマザキナビスコカップ】4試合