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【選手名鑑】東口順昭の現在地|紆余曲折の人生を経て挑む日本代表守護神の座

 「4年後は自分が出る」
 東口は、ガンバ大阪の下部組織を経てアルビレックス新潟に加入した。度重なる大怪我をのりこえた彼は、13年ぶりに古巣ガンバ大阪へ移籍。そこで多くのタイトル獲得に貢献し、今現在もガンバ大阪の絶対的な守護神として君臨している。しかし、彼にはまだ奪えていない守護神の座があった。紆余曲折の人生、「回り道してきた人間」と自称する彼の現在地とは。



東口順昭のプレースタイルと選手紹介

 セーブ数、PA内でのセーブ数ともにJ1トップクラスの数値を誇り、動体視力の高さが伺える。

東口順昭のプロフィール

選手名 東口順昭|Masaaki HIGASHIGUCHI
出身 大阪府高槻市
生年月日 1986年5月12日
身長・体重 184cm・78kg
現所属チーム/背番号/利き足 ガンバ大阪/#1/右足
過去所属 2009-2013 アルビレックス新潟
2014- ガンバ大阪



新潟での7年間

 「何度挫折しても必ず這い上がるんだという信念が生まれた」

 東口は中学時代をガンバのジュニアユースで同期の本田圭佑選手とプレーした。しかし実力不足でユースへの昇格がかなわず、京都・洛南高校から福井工業大へ進学するもサッカー部が解散するという事態に。さらにそこから新潟経営大に転入した。ここでの活躍が認められ2009年アルビレックス新潟に入団する。
 
 プロ1年目唯一の出場はまさかの5失点という屈辱的な大量失点から始まる。
 プロ2年目の2010年、守護神の座を掴み始めた東口に襲いかかった「左眼窩壁骨折および鼻骨骨折」全治3ヶ月だった。復帰後もレギュラーとして返り咲く事もでき、日本代表のアジアカップ予備登録メンバーにも選出される飛躍の年になるもこれでは終わらなかった。
 プロ3年目、クラブでは守護神の座を譲らず、国際Aマッチではないものの東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチにて日本代表のメンバーとして出場した。しかしまた訪れた「右ひざ前十字靭帯損傷」全治8ヶ月という重傷だった。そして9月9日付けで登録を抹消されてしまう。
 4年目。4月4日のナビスコ杯予選リーグで約7ヶ月ぶりの先発復帰を果たすも、約半年後の10月「右ひざ前十字靭帯再断裂ならびに内側側副靭帯損傷」またしても全治8ヶ月の長期離脱を余儀なくされてしまう。
 2013年新潟でのプロ5年目に7月6日に復帰。7年間で3度の大怪我を負うも負けなかった男は精神的にたくましく、大きく成長し、同年12月古巣ガンバ大阪へ完全移籍を決意する。

古巣での躍進

 新潟で大きく成長した東口は、13年ぶりの古巣ガンバ大阪で躍進する。加入1年目から守護神として活躍し、プロ入り初のリーグ戦全試合フル出場。その安定さでリーグ2位タイの31失点に抑え、ガンバのリーグ優勝、国内三冠達成に貢献した。
 その後、東口はガンバ大阪の絶対的な守護神として君臨。2018年「右頬骨と右眼窩底」を骨折するも3週間で練習に復帰した。ガンバ大阪に加入してからの獲得タイトルは「5冠」 現在も躍進に次ぐ躍進を遂げている東口。
 
 しかしアルビレックス新潟・ガンバ大阪でゴールマウスを守り続けた東口にどうしても奪えていない守護神の座があった。

日本代表「守護神の座」

 東口の国際Aマッチデビュー戦は2015年8月9日東アジアカップ中国戦で初召集から約4年後のことだった。川島永嗣や西川周作らの牙城を崩すことはできず、招集されることがあっても試合の戦況をピッチの中ではなくベンチで眺める日々が続いた。
 2018年に行われた自身初のワールドカップも出場することは叶わなかった。2015年~2018年10月17日時点で国際Aマッチ出場はわずかに「7試合」
 2018年10月16日国際親善試合ウルグアイ戦でフル出場し、2018年国際Aマッチ3試合目の出場をした東口。
 
 「回り道してきた人間」と自称し、度重なる怪我を乗り越えた男は精神的にも強い。
 GKというポジションは1つだけ。さらにこれまでW杯に立ったGKは川口能活、楢崎正剛、川島永嗣の3人だけ。
 彼の日本代表守護神への挑戦はまだ始まったばかりである。

東口順昭の動画

 



年度別出場成績

2018年

 【リーグ戦】25試合36失点クリーンシート6試合
 【リーグカップ】3試合6失点
(2018年10月17日時点)

2017年

 【リーグ戦】33試合40失点クリーンシート7試合
 【ACL】5試合12失点クリーンシート1試合
 【天皇杯】2試合3失点クリーンシート1試合
 【ACL予選】1試合クリーンシート1試合

2016年

 【リーグ戦】34試合42失点クリーンシート8試合
 【ACL】5試合7失点クリーンシート1試合
 【FUJI XEROX SUPER CUP】1試合3失点
 【リーグカップ】1試合1失点

2015年

 【リーグ戦】34試合36失点クリーンシート9試合
 【ACL】12試合14失点クリーンシート3試合
 【天皇杯】4試合2失点クリーンシート2試合
 【Jリーグチャンピオンシップ】3試合5失点
 【FUJI XEROX SUPER CUP】1試合クリーンシート1試合
 【リーグカップ】1試合3失点

2014年

 【リーグ戦】34試合31失点クリーンシート14試合
 【リーグカップ】10試合11失点クリーンシート2試合
 【天皇杯】6試合5失点クリーンシート2試合

2013年

 【リーグ戦】21試合23失点クリーンシート6試合
 【天皇杯】1試合1失点

2012年

 【リーグ戦】24試合23失点クリーンシート11試合
 【リーグカップ】4試合2失点クリーンシート2試合

2011年

 【リーグ戦】14試合17失点クリーンシート4試合

2010年

 【リーグ戦】25試合31失点クリーンシート3試合
 【リーグカップ】5試合1失点クリーンシート4試合
 【天皇杯】2試合2失点

2009年

 【リーグカップ】1試合5失点

代表歴

出場大会

ユニバーシアード日本代表
2007年 – ユニバーシアード・バンコク大会
日本代表候補
2010年 AFCアジアカップ2011予備登録メンバー

日本代表

2011年 東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!
2011年 キリンカップサッカー2011
2015年 AFCアジアカップ2015
2015年 東アジアカップ2015
2016年 キリンカップサッカー2016
2017年 EAFF E-1フットボールチャンピオンシップ2017
2018年 2018 FIFAワールドカップ



年度別来歴

2019年

 

2018年

 4月21日に行われたセレッソ大阪戦で、味方の三浦弦太と接触し、右頬骨と右眼窩底を骨折した。この怪我によりW杯も危ぶまれたが、怪我から3週間で練習に復帰し、5月12日の横浜FMでは先発復帰を果たした。その試合での活躍もあり、怪我から3週間でロシアワールドカップメンバー入りを果たしたが、本大会での試合出場はなかった。

2015年

 8月9日、 東アジアカップ2015の対中国戦で初召集から約4年越しで国際Aマッチ初デビューを飾った。リーグ戦ではこの年も前年に劣らぬ高いパフォーマンスを見せ、1年通して大きな怪我なく代表召集期間と重なったナビスコカップ準々決勝・準決勝、スルガ銀行CSを除く公式戦全試合に出場し2年連続でガンバTVアウォーズのMVPを受賞。CS準決勝浦和戦ではビッグセーブを連発して浦和の猛攻を防ぎ、さらに丹羽大輝のあわやオウンゴールになりかけたバックパスをわずかに足先で触れることで軌道を逸らし失点を防ぐと、そこから自身がつなげたボールが藤春廣輝の決勝点を呼び込む活躍を見せ、Jリーグが選ぶ同試合のMOMに選出。天皇杯決勝の浦和戦でも味方の倍以上のシュートを浴びながら1失点に抑えガンバの天皇杯連覇に貢献した。

2014年

 1年通して大きな怪我なくプロ入り後では初めてリーグ戦全試合にフル出場。リーグ優勝がかかったシーズン終盤の第32節浦和戦や第33節神戸戦ではファインセーブを連発し、11月・12月のJリーグ月間MVPを受賞。シーズン通して安定したセービングを披露し、失点数はリーグ2位タイの31失点に抑え、完封試合はガンバのクラブ新記録となる14試合を記録するなど、ガンバのリーグ優勝さらには国内三冠達成に大きく貢献。監督の長谷川健太からはチームのMVPに指名され、同年度の日刊スポーツ 提供「黄金の脚賞」を受賞。また、ガンバの公式応援番組『GAMBA TV〜青と黒〜』の年末特別企画「ガンバTVアウォーズ」ではMVPに選出された。同年11月、約3年ぶりに日本代表に招集され、12月には自身にとって初の国際大会となるAFCアジアカップ2015の代表メンバーに選出された。

2013年

 7月6日のJ1第14節柏レイソル戦で、約9カ月ぶりに公式戦復帰を果たした。復帰以降は守護神として後半戦を首位で乗り切ったチームを支え、第33節横浜F・マリノス戦では好セーブを連発し、マリノスのリーグ優勝を阻止する活躍を見せた。

 12月16日、ガンバ大阪へ完全移籍。ジュニアユース時代を過ごしたガンバへ13年ぶりに復帰となった。

2012年

 リハビリからのスタートとなったが、4月4日のナビスコ杯予選リーグ第2節清水エスパルス戦で約7ヶ月ぶりに先発復帰を果たした。また、7月21日に行われた東日本大震災復興支援 2012JリーグスペシャルマッチのJリーグ選抜メンバーに選出。前半45分間に出場し、Jリーグ TEAM AS ONEの元イタリア代表FWアレッサンドロ・デル・ピエロと対戦した。チームが得点力不足で苦しむ中でも安定した守りで鼓舞していたが、10月13日のザスパ草津U-23とのトレーニングマッチで負傷。右ひざ前十字靭帯再断裂ならびに内側側副靭帯損傷で全治8ヶ月となり、2年連続での長期離脱となった。

2011年

 プロ入り後初めて開幕スタメン入りを果たすなどレギュラーの座を譲らず、3月29日には「東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!」の日本代表メンバーに選出。川島永嗣、西川周作に次いで出場し、国際AマッチではないがA代表デビューを果たす。出場時間帯にJリーグ選抜のFW三浦知良にスーパーゴールを決められた。この年行われたキリンカップの日本代表メンバーにも選出されたが、8月28日に行われたファン感謝イベントのサマーフェスタ2011のリラックスゲームで右ひざ前十字靭帯損傷、全治8ヶ月の重傷を負い、急きょ移籍加入した武田洋平を登録するため、9月9日付けで選手登録を抹消された。

2010年

 黒河貴矢、高木貴弘に次ぐ第3GKと目されていたが、高木が開幕前に負傷離脱し、黒河もJ1第2節ジュビロ磐田戦で負傷退場したため、急きょ途中出場しJリーグデビューを果たした。試合は1-0とリードした場面で同点ゴールを決められるというほろ苦いものであった(試合は1-1のまま終了)。
 その後はレギュラーの座を譲らなかったが、J1第14節ベガルタ仙台戦で左眼窩壁骨折および鼻骨骨折の全治3ヶ月の重傷を負い一時戦列を離れた。怪我から復帰するとレギュラーに返り咲き、最終的にリーグ戦25試合に出場。AFCアジアカップ2011の日本代表予備登録メンバーにも選出されるなど飛躍の1年となった。

2009年

 プロ入りに際しては古巣のG大阪からもオファーが来たが、大学卒業後は自ら「サッカー人生の転機になった」と語る新潟に加入。6月7日にナビスコ杯予選リーグ第6節サンフレッチェ広島戦にて公式戦デビューを果たしたが、5失点を喫した。

プロ前

 7歳から大阪でサッカーを始め、芝谷中学校時代はガンバ大阪ジュニアユースでプレーしていたが、身長が低いこと(当時は170cm以下と小柄だった)などの理由からユースへの昇格は見送られ、京都の洛南高校(当時金光大阪高校のセレクションに落選している)を経て福井工業大学に進学。
 しかし、2年時にサッカー部が解散したため、新潟経営大学に転入。2007年にはユニバーシアード代表に選出され、2008年はデンソーカップを受賞するなど徐々に頭角を現し、アルビレックス新潟の特別指定選手に登録された。