「『攻撃の選手は数字や』と(レヴィー・)クルピさんから言われ続けました」とコメントを残し続けた2014年、南野拓実は世界で最も悲しみの十字架を背負ったサッカー選手の一人だった。翌年から戦いの地をオーストリアに移し、もうすぐ4年の歳月が経過しようとしている。日本中の期待を一身に受けた稀代の負けず嫌いな天才はようやく9月のコスタリカ戦で代表初得点を決めた。出場3試合。しかし、だからこそ身につけた逞しさも見られる。2018年10月シリーズまでの南野拓実を振り返りたい。
- 【選手紹介】南野拓実のプレースタイルと選手紹介
- 【ヒストリー】「幼馴染・室屋成」とゼッセル熊取
- 【ヒストリー】2011年U-17W杯での経験値
- 【ヒストリー】落選、敗退、降格、海外挑戦
- 【ヒストリー】ひたむきにオーストリアで削った鎬
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南野拓実のプレースタイルと選手紹介
「攻撃の選手は数字や」と散々言われ続けたことで変わった意識が、プレースタイルさえも変化させた。『攻撃万能薬』として運動量もテクニックも、守備さえも厭わない総合サッカー能力の高さを誇ってプロに殴り込んできた南野だが、一つの言葉をきっかけに主体をボールからゴールへ変化させた。左サイドやセカンドトップの位置から得点に絡むスタイルを、攻撃的などのポジションでも得点に直結させるスタイルにモードチェンジして日本代表へ帰ってきた。
「幼馴染・室屋成」とゼッセル熊取
兄同士が同い年で、弟同士もまた同じ。兄同士が追ったサッカーボールを見て俺たちもと追いかける。一見数奇でごく普通な二人は、地域で比べ物にならない上手さを誇り、ゼッセル熊取に籍をおいた。当時から類まれなボールコントロール技術と足元に吸い付くドリブルやトラップを見せた南野拓実は、大人たちの注目の的となり、後方から幼馴染である室屋成のボールを受けて得点や得点機会を量産した。その後室屋がゼッセル熊取ジュニアユースへ進むと、南野拓実はセレッソ大阪ジュニアユースへ籍を移す。彼らは中学2年で相まみえることとなるが、南野のハットトリックもあり、大差で試合を終えた。地域はおろか全国でもこの世代において「南野拓実」の才は傑出していた。
2011年U-17W杯での経験値
U-17W杯直前には、FIFAの公式ページにおいた「日本のリーサル・ウェポン」と紹介されるも、極度の不調に陥ってしまう。高校プレミアリーグでは得点王にこそならずも、高校1年段階から代えのきかない選手となっており、世代屈指のタレントとして少しずつ世界にも名が知られていた。決勝トーナメント1回戦のニュージーランド戦で幼馴染LSB室屋成のアシストもあり1得点こそあげられたが、本調子でないまま挑むことになってしまったことを悔いた。
2012年にセレッソ大阪で2種登録されると、トップチームで本格的にプロとして挑むシーズンの開幕節からセレッソ大阪の象徴的背番号である『13』を背負った。2014年1月にはベトナムで開催されたU-19日本代表で出場したヌティフードカップで大会MVPに輝き、4月には日本代表候補トレーニングキャンプに初参加するなど、10代でのW杯入りも囁かれたほどだった。しかしここまで順風に進んだ南野の人生だが、風が急に凪ぐ。
落選、敗退、降格、海外挑戦
ブラジル・ワールドカップ代表メンバーへの逆転はならなかったが、若手からの突き上げを欲していた時期であったこともまた事実だった。予備登録メンバー含めても最年少だった南野に、期待を超越した様々な重責が集まり始める。シーズン開幕直後の春先、リオ五輪の兄世代であるU-21日本代表と弟世代であるU-19日本代表が練習試合で相まみえた。南野の学年としては94年生まれの学年だったものの、早生まれのためにU-19側に配された南野は、単独で強烈なパフォーマンスを見せつけて2-0と勝利。南野が出場しなかったゲームでは4点を取られ、結果的にU-19代表は南野の活躍以外でのパターンを構築できなかった。
10月に行われたU-20W杯を巡るAFC U-19選手権では、南野のパフォーマンスが光って4試合4得点と気を吐くも、ほぼワンマンチームの様相を呈しており、結果的に準々決勝のPK戦のラストキッカーでその南野拓実がPKを外してU-20W杯出場権を逃してしまった。
所属クラブに戻っても苦境が続いた。噛み合わない歯車はどこまでも戻らない。FWディエゴ・フォルランを活かすことができず、夏にスイス・バーゼルへと飛び立ったFW柿谷曜一朗の穴も埋められず、降格の憂き目に遭ってしまう。代表でもクラブでも、重責はエースであり象徴である「南野拓実」の才を欲した。彼に負わせた重責を回復させることができなかった。
ひたむきにオーストリアで削った鎬
セレッソ大阪の2年間(+2種登録時代の3試合)で62試合7得点だった得点能力は、オーストリアの3年半で94試合31得点と圧倒的に向上した。しがらみも重責も振りほどき、自由な翼を授かった南野は自身の研鑽に励み続けた。現在、所属した4シーズンのリーグ戦期間全てでリーグ優勝を経験。毎年のように出場するヨーロッパリーグでも既に10試合以上に出場している。
リオ五輪の道も、ロシアには繋がらなかったがオーストリアで直向きに均し続けた道が2018年になって光が当たり始めた。ようやく3試合目の出場を掴んだ2018年10月のコスタリカ戦で決めた得点が初代表招集から4年半かかって決めた代表初得点だった。起点はU-17W杯当時から共に戦うFW中島翔哉、アシストはリオ五輪の主将MF遠藤航、南野のゴールを祝福し、彼の隣にいたのは幼馴染のRSB室屋成だった。
今後10年代表引っ張っていくだけの力も持ち合わせる南野拓実の日本代表での話は、まだ始まったばかり。背負い続けた重責も、しがらみもない翼を両翼へとなびかせ、新たな攻撃の中心地で南野拓実は新たな光を発し始めた。