Evolving Data Labo

【選手名鑑】長友佑都の現在地|太鼓叩きから“世界”へはばたいた日本の熱き“サムライ”



長友佑都のプレースタイルと選手紹介

 幼少期に和太鼓を習っていた経験から明治大学で負傷欠場していた際は出場選手を太鼓で応援。そのリズムはスタンドの話題となり、鹿島アントラーズのサポーター集団IN.FIGHTから勧誘を受けるほどだった。

長友佑都のプロフィール

選手名 長友佑都|Yuto NAGATOMO
出身 愛媛県西条市
生年月日 1986年9月12日
身長・体重 170cm・68kg
現所属チーム/背番号/利き足 ガラタサライ/#55/右足
過去所属 2005-2007 明治大学体育会サッカー部
2007-2011 FC東京(J1)
2010-2011 チェゼーナ(イタリア4部)
2011-2018 インテル(イタリア1部)
2018 ガラタサライ(トルコ1部)



長友佑都の動画

 



年度別出場成績

2018年

 【リーグ戦】

2017年

 【リーグ戦】

2016年

 【リーグ戦】

2015年

 【リーグ戦】

2014年

 【リーグ戦】

2013年

 【リーグ戦】

代表歴

 2008年5月24日:国際Aマッチ初出場 – キリンカップ vsコートジボワール (豊田スタジアム)
 
 2008年11月13日:国際Aマッチ初得点 – キリンチャレンジカップ vsシリア (ホームズスタジアム神戸)

出場大会

全日本大学選抜
ユニバーシアード日本代表
2007年 – 2007年夏季ユニバーシアード (6位)
U-23日本代表
2007年 – 北京オリンピックサッカーアジア予選
2008年 – 北京オリンピック (グループリーグ敗退)

日本代表

2010 FIFAワールドカップ・アジア予選
キリンカップサッカー2008 (優勝)
アジアカップ2011 予選
キリンカップサッカー2009 (優勝)
東アジアサッカー選手権2010 (3位)
2010 FIFAワールドカップ (ベスト16)
AFCアジアカップ2011 (優勝)
キリンカップサッカー2011 (優勝)
2014 FIFAワールドカップ・アジア予選
FIFAコンフェデレーションズカップ2013 (グループリーグ敗退)
2014 FIFAワールドカップ (グループリーグ敗退)
AFCアジアカップ2015 (ベスト8)
2018 FIFAワールドカップ・アジア予選
キリンカップサッカー2016
2018 FIFAワールドカップ (ベスト16)



年度別来歴

2019年

 

2018年

 1月31日、出場機会を求め、トルコ・スュペル・リグのガラタサライSKへ期限付き移籍。4月29日、第31節のベシクタシュJK戦とのダービーではアシストを記録して勝利に貢献した。2月5日の20節以降のリーグ戦には全てスタメン出場し、5月20日の最終戦にもフル出場してチームは勝利、ガラタサライの3年ぶり21度目のリーグ優勝に貢献した。シーズン終了後に、ガラタサライへの完全移籍が発表された。

 6月、ロシアワールドカップのメンバーに選出され、W杯3大会連続出場を果たす。大会前に髪色を金にして話題を集めた。グループリーグ3試合にフル出場し、第2戦のセネガル戦では乾貴士の得点をアシストし、GL突破に貢献。しかし、チームは決勝トーナメント1回戦で敗れてベスト16止まりとなった。3大会でW杯11試合出場は、川島、長谷部と並び日本人最多出場となった。

2017年

 4月15日、第32節のACミランではミラノダービーでフル出場を果たした。シーズン終了後には移籍の噂も報道されたが、残留した。

 2017-18シーズン、9月17日に行われた第4節のFCクロトーネ戦で途中出場し、インテル通算200試合を達成した。シーズン序盤はレギュラーの座を確保していたが、11月19日のアタランタBC戦以降はダビデ・サントンや新加入のダウベルト、ジョアン・カンセロなどとポジション争いを繰り広げている。

 2017年11月10日の国際親善試合ブラジル戦で日本代表では7人目となる国際Aマッチ100試合出場を達成。

2015年

 1月開催のAFCアジアカップでは準々決勝UAE戦で右太もも肉離れを起こし、日本代表もここで敗退。同大会後、初の先発出場となった同年2月のパレルモ戦でも右太ももを痛め、長期離脱。これが、長友にとってシーズン4度目の故障となった。5月のラツィオ戦から戦列復帰。

 2015-2016シーズン当初は、サイドバックの補強が進められたために長友は余剰人員となりサイドバックでのポジション争いにすら参加できず一時は売却対象となった。イタリア国内外から複数のオファーが寄せられたが、インテル残留を希望し移籍を拒否。残留は叶ったものの、途中出場した第2節カルピ戦で失点に絡むミスをしたことも重なり苦しい立場は続き第3節から第8節までは出場機会なし。しかし、放出確実と目される中でもコンディション作りを怠ることなく、約2ヶ月ぶりの出場、シーズン初先発となった第9節パレルモ戦では気持ちの入ったプレーで好アピール。第11節ローマ戦でも守備に冴えを見せ、復権に成功した。クラブからは契約の更新を打診され、2016年4月に2019年6月末までの契約延長を発表。

2014年

 6月に開催されたFIFAワールドカップではグループリーグ全試合にフル出場。第1戦コートジボワール戦では本田圭佑の先制ゴールをアシストしたが、自身の背後のスペースを狙われて左サイドで数的不利の状況を作られ連続失点。走行距離では3試合で、スプリント数及び最高時速では2試合で両チームトップの記録を残すなど死力を尽くしたが、2戦目・3戦目での攻撃参加は得点に結びつかずグループリーグ敗退に終わった。

2014-2015シーズン、インテルの副主将に就任。

2013年

 2月25日、第26節のミラノダービーで同点ゴールをアシストするも直後に左膝を負傷し途中退場。以後、出場から遠ざかり4月14日の第32節カリアリ戦で復帰するも左膝痛を再発しわずか8分で負傷退場となってしまった。後日、左膝半月板損傷と診断され手術が必要とされたが、保存療法を選択することで手術を回避し、シーズン終盤に復帰を果たした。

 2013年8月27日の2013-14シーズンのセリエA開幕戦ジェノア戦では1年8ヶ月ぶりの得点を挙げ、第2節のカターニャ戦でもヘディングシュートを決め、2試合連続ゴール。得点に絡むべく、ゴール前に走り込むプレーを繰り返した。同年12月22日のミラン戦において、後半に交代でピッチを去るエステバン・カンビアッソからキャプテンマークを受け継ぎ、移籍4シーズン目にして初めてゲームキャプテンを任された。この年、アジアサッカー連盟から国際最優秀選手賞に選出された。2013-14シーズンはシーズン通して大きな怪我もなく、最終的に自己最多の5得点6アシストを記録するなど攻撃面でも大きな向上を見せたが、チームは2年連続でCL出場権を逃した。

2012年

 10月7日のセリエA第7節ACミランとのミラノダービーで2枚のイエローカードを受け、自身初の退場処分となった。12月9日に行われたセリエA第16節ナポリ戦でイタリアでの公式戦100試合出場を果たした。

2011年

 アジアカップでは全6試合にフル出場(日本代表では長友と今野泰幸のみ)し、決勝のオーストラリア戦では試合途中に左サイドバックから左サイドハーフにポジションを上げて、李忠成の決勝点をアシストするなど日本代表のアジア制覇に貢献した。

 1月31日、移籍金約2億円でチェゼーナへ完全移籍し、さらに冬の移籍市場の最終日となった同日、ダビデ・サントンとのトレードで、インテルへのシーズン終了までのレンタルが決定した。背番号は55番。2月6日、セリエA第24節ローマ戦でインテルでのデビューを飾り、3月6日の第28節ジェノア戦にてセリエA初得点を決めた。3月15日、UEFAチャンピオンズリーグ(CL)決勝トーナメント1回戦2ndレグのバイエルン・ミュンヘン戦では、途中出場で日本人4人目となるCL決勝トーナメント出場を果たし、アウェーでの勝利に貢献。準々決勝では内田篤人が所属するシャルケ04との対戦となり、CL初の日本人対決を演じ、2ndレグでは両チーム最長の走行距離を記録し、地元紙から高評価を得たものの、チームはここで敗退。5月22日のリーグ最終節カターニア戦ではリーグ戦2得点目を挙げた。5月29日、シーズン最終戦となったコッパ・イタリア決勝のパレルモ戦では右SBとしてフル出場し、イタリアでの初タイトルを手にした。

 2011-12シーズンの始動日となった7月1日、5年契約でインテルへの完全移籍が発表された。12月10日の第15節フィオレンティーナ戦と、12月13日の第11節(悪天候による延期開催)ジェノア戦で自身初の2試合連続ゴールを挙げ、12月21日のレッチェ戦では2アシストの活躍を見せた。2011-12シーズンのインテルは不振により、2度の監督交代があり、交代当初は起用されないこともあったが、最終的にレギュラーの座を確保した。

2010年

 2010年に開催された南アフリカワールドカップでは、全4試合に左サイドバックでフル出場を果たした。グループリーグ第1戦のカメルーン戦では後にチームメイトとなるサミュエル・エトオを徹底マークし完封、第2戦のオランダ戦においては途中出場したエルイェロ・エリアのポジションに合わせて右サイドバックにポジションチェンジするなどエースキラーとして活躍し、日本代表の決勝トーナメント進出に大きく貢献した。同大会から国際サッカー連盟(FIFA)が導入したレーザー計測によると、長友のトップスピードは第1戦(カメルーン)では時速30.13キロメートル(km)、第2戦(オランダ)では同26.70kmと、両試合共に対戦相手を含めて最速を記録した。また、この活躍により地元の愛媛県から愛媛県文化・スポーツ賞を授与された。

 7月14日、ワールドカップでの活躍が評価され、セリエAに20シーズンぶりに昇格したACチェゼーナへ買い取りオプション付きでのレンタル移籍が決定。退団セレモニーの際は「みなさんと別れるつもりはありません。世界一のサイドバックになって、また青赤のユニホームを着たいです」と涙ながらに語り、東京サポーターから拍手でイタリアに送り出された。

 チェゼーナでは自ら希望した背番号5番を譲り受け、左サイドバックとして開幕戦(対ローマ戦)からフル出場。マッシモ・フィッカデンティ監督からは「長友は左右どちらもいいが、ポゼッションとビジョンの点では左の方がいい」と評され、試合に応じ両サイドで起用(試合展開によっては前線に入る)され、11月21日の第13節パレルモ戦ではチェゼーナ加入以来初となるアシストを決めた。その後、12月18日の第17節カリアリ戦までフィールドプレーヤーではチーム唯一の全試合フル出場を続け、ロレンツォ・ミノッティ強化部長からは「(長友は)とてもいいプレーをキープしており、人間的にも素晴らしくロッカールームを団結させる存在」と高く評価された。また、本人もセリエAでの経験から、トップレベルの相手に対する間合いの取り方を体得し、走力、フィジカルの更なる向上の手応えを掴んだと語っている。

2009年

 土斐﨑浩一フィジカルコーチとともにアップダウンの質の向上を目指し走法の改良に着手。運動量と、強靭なフィジカルを活かしたスピード感のあるプレーに磨きをかけた。同年12月に日本代表の特別講師を務めた川本和久からは、代表選手の中で唯一長友だけが「文句なし」のランニングフォームであると評価された。同年後半からは攻撃の駒としてサイドハーフに上がり、サイドバックには椋原健太らが投入されるという起用法も見られ、東京のナビスコカップ優勝に貢献するなど、ユーティリティー性を発揮し、この年のJリーグベストイレブンにも選出された。

2008年

 大学卒業を待たずしてプロに進むことを決意し、2008年に在学したままサッカー部を退部してFC東京と正式契約を結んだ。神川は長友を2008年度のサッカー部副将に据えるつもりでいたが、長友の強い決意に触れてこれを撤回。

 サッカー部を1年残して退部しFC東京とのプロ契約を決断した理由の一つに、「女手一人で自分を含む3兄弟を育てる母に経済的に早く楽をさせたかった」ことを挙げている。

 3月8日、リーグ開幕戦の神戸戦から、前年までレギュラーだった金沢浄らを押しのけて先発出場を果たす。5月3日、第10節大宮戦でJリーグ初得点を決めた。東京加入後の主ポジションは左サイドバックであったが、同年後半、当時の監督城福浩は、東京のその時点でのチーム状況や対戦相手の選手の特長によって、右サイドバックを主としていた徳永悠平と長友を左右入れ替えて起用した。

 5月18日には岡田武史監督率いる日本代表に初招集され、5月24日のキリンカップコートジボワール戦にフル出場して代表初出場を記録。11月13日のキリンチャレンジカップ・シリア戦では先制のミドルシュートを決め代表初得点を記録した。また、同年の北京オリンピック日本代表に選出され本大会にも出場したが、チームはグループリーグ3戦全敗に終わり、後に「余裕がなかった」「思い通りのプレーはできなかった」と語っている。

プロ前(大学)

 2005年、明治大学サッカー部入部。神川明彦監督によって右サイドバックへコンバートされた。神川は長友を右サイドバックにコンバートした理由について、フィジカルの強さ、走力、攻撃の完結力を生かすためであると語る。このポジションでのプレーをものにしつつあった矢先、入部早々に発症した椎間板ヘルニアを再発。試合に出場できずスタンドで応援する日々が続いた。この時期、サッカーができないストレスでパチンコなどの遊興に溺れたことがあったが、実姉や大学の同窓生の叱咤激励で乗り越えることができたと語っている。

 2006年8月にかけて復帰し、後期リーグの開幕戦で入部以来初の先発出場。椎間板安定の為に腰周りの体幹筋を鍛えたことも奏功し、復帰後3試合ほどで神川が「別格」と評するほどのプレーを見せるようになった。身体能力の強さから3バックで臨む際にはセンターバックを務めたこともあった。ここから急速に頭角を現し、全日本大学選抜やユニバーシアード代表にも選出された。同学年には藤田優人、林陵平、橋本晃司らがいた。

 2007年3月に行われたFC東京との練習試合におけるFWリチェーリとのマッチアップが当時の原博実監督など東京関係者の関心を引き、5月から特別指定選手としてFC東京の練習に参加。7月8日のナビスコカップ準々決勝の対横浜FM戦で途中起用され公式戦デビュー。さらにU-22日本代表として北京オリンピックアジア二次予選のマレーシア戦に選出。右ウイングバックで出場し、ダイビングヘッドでの先制点に加えてPKを獲得するなどの活躍を見せた。

プロ前(幼少期~高校)

 スポーツ一家の第二子として生まれ、母方の祖父は第1回小倉競輪出走者である元競輪選手の吉田達雄。達雄の弟で同じく元競輪選手の吉田実は大叔父にあたる。父方の祖父は明治大学出身の元ラガーマン。

 小学校1年生時にサッカーを始め、6年時に愛媛FCジュニアユースのセレクションを受けるも不合格。西条市立北中学校在学時に恩師である井上博に出会い、この時期の走り込みにより現在の豊富な運動量のベースが作られた。2001年のU-15全日本ユース選手権では県3位の成績を残した。

 2002年、サッカーの強豪東福岡高校に進学。森重潤也の下で2年生時に1ボランチとしてレギュラー入りしたが、地区選抜などには選ばれず全国的には無名だったためスポーツ推薦を得られず、進学先の明治大学政治経済学部には指定校推薦で入学した。高校時代の同級生には近藤徹志、ラグビー日本代表の豊田将万などがいる。