東北のファンタジスタと呼ばれた高校時代を経て1998年中田浩二・曽ヶ端準らと共に鹿島アントラーズへ入団。2000年にはナビスコカップ優勝、Jリーグ優勝、天皇杯優勝のJリーグ史上初の3冠を達成した。2006年8月、イタリアで10ヶ月間の武者修行を経験し、再び鹿島へ。三竿健斗の台頭や、永木亮太、レオ・シルバの加入、年齢などで出場機会が減少しているが、キャプテンとしての存在感は絶大である。ジーコスピリットを受け継ぐ彼の現在地とは。
・小笠原満男の動画
・選手紹介
・プロフィール
・プレースタイル・能力値・アビリティ
・セールスポイント・ウィークポイント・グロースポイント
・ヒストリー
・年度別来歴
・Evolving Data Other Contents
・Evolving Data Category Contents
小笠原満男の動画
選手紹介
人見知りでグイグイ行く方ではない。
内田篤人からは「メンバーに“神様”みたいな人もいますからね」「ボスというかドン」と評された。
小学生時代に木村和司の映像を繰り返し見て練習を積み、実際にビデオテープがすり切れたという逸話がある。
スパイクの色は一貫して黒をベースとしたものである。「白など他の色のスパイクは蹴る瞬間気が散るから」と理由を語っている。
プロフィール
選手名 | 小笠原満男|Mitsuo OGASAWARA |
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出身地 | 岩手県盛岡市 |
生年月日 | 1979年4月5日 |
身長・体重 | 172cm・73kg |
現所属チーム/背番号/利き足 | 鹿島アントラーズ(J1)/#40/右足 |
プレースタイル・能力値・アビリティ
現在作成中
セールスポイント・ウィークポイント・グロースポイント
現在作成中
ヒストリー
斎藤重信監督率いる岩手県立大船渡高等学校に進学し、斎藤の家で下宿生活を送る。「この出会いが自分の人生の中で最大の出会い・きっかけ。あの出会いがなかったら今の自分がいなかったのは間違いない。」と語る。
年度別来歴
4月16日、第7節のベガルタ仙台戦でJ1通算500試合を達成した。
プロ入り後初の無得点に終わった。
10月31日のナビスコカップ決勝でMVPを受賞。
8月23日の清水戦で、J1新記録となるリーグ戦16シーズン連続得点を達成。
7月14日対セレッソ大阪戦において2006年4月2日の大宮戦以来、約6年3カ月ぶりの通算13得点目の直接FK弾を決め、歴代4位に浮上した。
3月18日から5日間東日本大震災の被害を受けた地元岩手で支援活動を行う。3月29日サッカー復興支援チャリティーマッチ、日本代表対Jリーグ選抜にJリーグ選抜として出場。以降、積極的に被災地を訪れ支援活動を行っている。5月31日東北地方におけるサッカー復興のために、東北人魂を持つJ選手の会を立ち上げた。
元日に行われた天皇杯決勝に出場し優勝に貢献。2月8日、全国のサッカー担当記者の投票により決められる2009年度の日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)を初受賞した。
シーズン開幕に向けて、フィジカルコーチにリハビリに協力してほしいと頼み込み、コーチの年末年始のオフを短縮してもらってリハビリに取り組んだ結果、キャンプ初日から主力組で練習を開始することができた。優勝を飾ったゼロックススーパーカップには出られなかったが、3月7日のJリーグ開幕戦の対浦和レッズ戦において、2-0でリードしている後半41分から途中出場、168日ぶりの復帰を果たした。
8月8日のJOMO CUPにJリーグ選抜メンバーに選出され、試合前に選手間投票によりキャプテンとして出場した。チームはJリーグ史上初の3連覇を果たし、自身は2005年以来のフル稼働となった。12月、JリーグアウォーズにてJリーグ最優秀選手賞を受賞した。
元日に行われた天皇杯決勝に出場し優勝に貢献。この年主将に就任し、AFCチャンピオンズリーグ2008では、規定により30を超える背番号が認められないため、かつて本田泰人が背負っていた背番号「6」を着けて出場した。
4月2日に対アルビレックス新潟戦で、日本及びイタリアリーグ通算10シーズン連続得点を達成した。
9月20日、対柏レイソル戦で左膝半月板損傷及び前十字靱帯を損傷し、全治10ヶ月という怪我を負った。一時は引退を考える程の怪我であったが、手術後はチームを盛り上げるために、異例の早い時期でのピッチ内リハビリを開始したり、シーズン終盤の優勝争いでは、ホペイロにベンチ外メンバーのユニフォームを試合会場に持ってきてもらうように頼み、試合開始前の円陣に全員がユニフォームを着て参加するよう呼びかけるなど、ピッチ外から鹿島のリーグ連覇を支えた。
7月3日にレンタル移籍終了で鹿島への復帰が発表された。背番号は40を選択、これは過去に背負った8番を野沢拓也が付けていたため、当時のJリーグ規定における最大数の背番号を選んだもの。
7月15日のサンフレッチェ広島戦(ナビスコカップ)で323日ぶりの復帰戦を勝利で飾った。鹿島復帰後は主にボランチとして攻守ともにチームの要となり、チームの6シーズンぶりのリーグ優勝に貢献。12月1日の対清水戦のPKによる得点でJリーグ通算50得点を達成した。
7月15日にカシマサッカースタジアムで開催されたJリーグオールスターサッカーに、史上最多得票で選出された。
8月、セリエAのFCメッシーナへ2007年6月まで10ヶ月間のレンタル移籍することが発表され、以前から望んでいた海外への初挑戦となった。9月20日の対レッジーナ戦において後半8分から途中交代で出場しセリエAデビューを果たした。10月21日のエンポリ戦でセリエA初ゴールを記録した。その後、技術はチーム1と言われながらも、差別的待遇を受け、出場のチャンスに恵まれることがなく、ほとんどの試合でベンチ外を強いられた。
小笠原自身は後に、セリエAでの一年間を通してボランチとしての守備力を磨き、人間としても成長することができたと述懐している。
ナビスコカップ優勝に貢献して大会MVPを獲得。2003年のシーズン終盤、当時ゲームキャプテンを務めていた秋田豊から、「全部背負ってみろ」とキャプテンマークを託された。これ以降、柳沢敦が主将に就任するまで、小笠原がゲームキャプテンを務めることになった。
1月1日に行われた天皇杯決勝の清水エスパルス戦では、先制点と、Vゴールとなるビスマルクからのパスをボレーで合わせるミドルシュートを延長前半に決めて3対2で勝利し、チームを優勝に導いた。
先制点となったフリーキックは、主審に守備側の壁を適正な位置へ移動させるためのプレーの停止を要請せず、清水の選手たちが態勢を整える前にボールを蹴りこむという頭脳プレーだった。このVゴールはAFC月間最優秀ゴール賞に選ばれた。
背番号を17から8に変更。5月の柏レイソル戦で左肘を骨折するものの8月に復帰し、チャンピオンシップ第2戦のジュビロ磐田戦においては、延長戦10分にVゴールとなる直接FKを決めてリーグ連覇に貢献し、2年連続でチャンピオンシップMVPを獲得。この年、Jリーグベストイレブンに初選出され、以後2005年まで連続で選出された。
レギュラーに定着して活躍。ナビスコカップ優勝、Jリーグ優勝、天皇杯優勝と、鹿島のJリーグ史上初の3冠獲得達成に貢献した。Jリーグチャンピオンシップ、天皇杯の両大会においてMVPに選出された。
5月5日のジュビロ磐田戦でヘディングシュートでJリーグ初得点を記録。
高校卒業後に鹿島アントラーズに加入。同期は本山雅志、中田浩二、曽ヶ端準、山口武士、中村祥朗。4月15日の対ガンバ大阪戦でJリーグデビュー。
鹿島入団当初はレベルの高さから「とんでもないチームに来てしまった」と驚かされたという。
岩手県盛岡市に生まれ、地元の太田東サッカー少年団に入団しサッカーを始める。6年生の時に第15回全日本少年サッカー大会にチームのキャプテンとして出場している。
1995年、斎藤重信監督率いる岩手県立大船渡高等学校に進学し、斎藤の家で下宿生活を送る。“東北のファンタジスタ”と言われ天才派選手として注目され、U-16日本代表に初招集されてからは年代別日本代表に選出される。
1997年、第76回全国高等学校サッカー選手権大会に出場し、ベスト16進出の原動力となり大会優秀選手に選出された。高校選抜でチームを組んだ日本代表に選出され、第58回ベリンツォーナ国際ユース大会等に出場した。